生活福祉 姉歯暁

心に刻む歴史 ドイツと日本の戦後50年
ワイツゼッカー前独大統領講演全録

東京新聞戦後50年取材班編  東京新聞出版局

 大戦中ヒットラーの暗殺事件に加わった経歴を持つワイツゼッカー氏は、84年からドイツ連邦共和国第6代大統領となり、94年まで在任しました。
 ナチス・ヒットラーが行った残虐行為についてドイツの国会で国民に語った彼の言葉は全世界に大きな反響を巻き起こしました。そのワイツゼッカー氏が日本で行った講演の記録をブックレットにしたものです。同じ敗戦国でありながら、週35時間労働でゆとりのある生活を目指し、軍隊の中にまで「人道上おかしいと思ったら上官命令でも背いてよい」という法まで持っているドイツ、過労死が国際用語にまでなり、先進国一長い労働時間の日本、どこでなにが違ったのか、それを読み解く一つの鍵がこのブックレットの中に隠されています。


ゆたかな国をつくる 官僚専権を超えて
宇沢弘文 岩波書店

 宇沢弘文氏は現在71歳。あのヨハネ・パウロ二世がRerum Novarum(革命)というEncyclical(回勅でしょうかね)をつくる際に問い合わせをしてきた学者です。宇沢氏が30年以上もその目で見、集めた資料を基に水俣病から農業問題、金融から教育、環境問題までそれはそれは幅広くバッサバッサと切っていく、緻密かつ豪放を絵に描いたような著書です。
 ですます調で書かれ、学生のみなさんに親しみやすい本になっているかと思います。大学時代、こういう本も読んでみて下さい。ほーと驚かされるさまざまな事実、そういうことに気がついていくために必要な知識を得たいと思っていただければしめたものです。


人はなぜ騙されるのか 非科学を科学する
安斉育郎 朝日新聞社

 立命館大学で自然科学概論を教え、同時に立命館大学国際平和ミュージアムの館長も務めている安斉先生の講義はいつも満員御礼です。東が早大の大槻教授とすれば、西は安斉教授、その安斉先生が占星術からサイババまで単純に「ウソだ」というだけではなく、なぜそういうものをひとは信じるのか、長年の研究の成果を生かして楽しい文章で読ませてくれているのがこの本です。「金縛り」にあって困っている人、この本が効きます。


国際教養 板垣俊一

わが住む村
山川菊栄 岩波文庫

 本書は、東京生まれの著者が、東海道の藤沢宿にほど近い今の神奈川県藤沢市の農村に移り住み、そこで村人から聞いた昔の生活を記録したものである。二十世紀も終わろうとしている今、今世紀の日本人の生活の変化には驚くべきものがある。過去がどうあったか、またどう変わって来たかを、歴史の表面に表われる政治・社会の事件だけからではなく、庶民の暮らしを通して知ることが必要だと思っている。そのための一書として推薦する。なお、著者が女性であることから、女性の視点がそれとなく入っていることも良いと思う。


食物栄養 笠原賀子

遺伝子できまること,きまらぬこと
中込弥男 しょう華房

 生活習慣病をはじめ,さまざまな病気や性格,方向音痴など、あれもこれも遺伝子で決まる? 遺伝子と環境の関連は? などなど。。。
最新の情報を基に、科学的にわかりやすく検証されています。
 思わず納得の1ページも。。。


食物栄養 鈴木裕行

食材の常識が変わる本-別冊宝島436-
別冊宝島編集部 宝島社

 少し前にベストセラーになった「買ってはいけない」とそれにまつわる論争は、食品を科学的に理解する姿勢を養う上では格好の機会になったように思います。近年の食品の多様化とそれにともなう多種多様な「表示」。その「表示」のもつイメージにはどうしても振り回されがちです。しかし、よくよく見てみると、なんか変だな?と思うものも少なくありません。たとえば、「和牛」「国産牛」「J-ビーフ」ってどこが違うの?とか、「成分無調整牛乳」とわざわざ銘打つからには牛乳の成分調整ってあたりまえだったの?そういったさまざまな身近な食品の疑問について、わりと中立的な立場で書かれた本です。


日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン(山本七平) 角川文庫

 かなり以前に出た有名な本なので読んだ方も多いでしょうが、優れた日本人論と思いますので、まだの方はぜひどうぞ。この本は最初の章の「日本人は水と安全はタダだと思っている」という部分ばかりが国防論議にからんでよく引用されますが、それ以外に今の日本にも通ずる面白い内容がたくさんあります。とくに「日本教」という考え方は日本における宗教を考える上で興味深いと思います。


五分後の世界
村上 龍 幻冬舎文庫

 作家、村上龍の活動は最近のJapan Mail Mediaにおける金融・経済の実験的情報発信など多岐にわたっています。この人が少し前に書いたSF小説。それまでにエッセイで「なぜ今の日本はこのようになったのか」というようなことに関していろいろ書いていましたが、それに関連して築き上げた、今とはまったく違う日本の物語です。戦闘シーンの描写が結構刺激的で抵抗のある人もいるでしょうが、興味深い内容と思います。
 これを読んで面白かったら、partIIの「ヒュウガ・ウイルス」(幻冬舎文庫)もどうぞ。


生活科学 本間善夫

市民科学者として生きる
高木仁三郎 岩波新書

 最近「市民の科学」とか「市民の化学」という語をよく目にします。今までの「科学」とはいったい何だったのか、問い直されていると言っていいでしょう。原子力資料室を立ち上げ、もう一つのノーベル賞"ライト・ライブリフッド賞"を1997年に受賞し、現在は若い科学者のために高木学校を運営する高木さんの自伝的科学論。東海村臨界事故の直前に発売されたこともあって、大きな反響を呼んでいる一冊です。
 研究者時代に、微弱放射能測定のために自然放射線遮蔽材の鉄を探したところ、地球上の鉄が無数の核実験による人工放射能に汚染されてしまっているという話は衝撃的です(結局は戦艦「陸奥」のサルベージした鉄を使用)。これは地球上の生物がみな様々な人工化学物質に汚染されていることと共通しています。"汚れちまった"私たち生物は、そのことだけが平等になってしまったのかも知れません。
 同じ著者による「市民の科学をめざして」(朝日選書)、「科学は変わる」(現代教養文庫)、「宮沢賢治をめぐる冒険 水や光や風のエコロジ−」(社会思想社)などもお薦めです。


国際教養 柳町裕子

異性愛をめぐる対話
伊藤悟&簗瀬竜太 飛鳥新社

 あるゲイカップルが編集した対談集です。著者がゲイというと、「じゃあ、ちょっと手に取るのに勇気がいるような、アブノーマルな世界についての本かしら」と怪しまれる(あるいは、期待される)方がいらっしゃるかもしれませんが、これは「そのような本」ではなく、タイトルにあるように、「多くの人が普通と思っている世界(異性愛)」についての本です。より正しく言うと、「普通」とか「常識」とかで語られる世界に実際には様々な矛盾やひずみが存在しているということを知ることで、既成の価値観を見直そう、そしてより広い視点から「自分らしさ」や「人を愛すること」について考えてみよう、というメッセージを持った本です。「異性愛」にしか興味のない人にもおすすめします。


国際教養 山根麻紀

クオ・ワディス(全3巻)
ヘンリク・シェンキェヴィチ 岩波文庫

 暴君ネロの君臨するローマ帝国を舞台に、キリスト教の迫害を描いた長編小説。全編まるで映画を見ているような鮮やかな筆致。でも主題は歴史というより人間の魂です。激動の時代の中で、登場人物がどのように変容していくか、人間の弱さとその魂の本質的な気高さが、見事に描かれています。ちょっと長いですが一晩で夢中で読み、途中で幾度も涙してしまいました。1905年ノーベル文学賞受賞作。


愛するということ
エーリッヒ・フロム 紀伊国屋書店

 これは、お手軽な恋愛術の本ではありません。私達は往々にして、様々な人間(特に恋愛)関係の中で、相手をコントロールしようとしたり、自分の思い込みで縛ったりしてしまいますが、ほんとうに人を愛するということは、そういう「駆け引き」やエゴとは違う次元のものだとこの本は教えてくれます。私の恋愛を支えてくれた大事な1冊です。


生活科学 坂口淳

調べる・身近な環境
小倉紀雄、梶井公美子、藤森眞理子、山田和人
講談社ブルーバックス

 私たちの生活環境を調べてみましょう。 調べることによって「環境」について深く理解することが出来ます。新潟の川の水や大気は、きれいなのか、汚いのか調べてみましょう。


食物栄養 太田優子

アンダ−グラウンド
村上春樹 講談社

 1995年3月20日の地下鉄サリン事件の約9カ月後から1年間にわたり、丹念な共同作業のもとでまとめられた、60名(非常に困難な作業で連絡の取れた方々のうち、了承の得られた僅か42.9%!)に対するインタビュ−の(真に)労作。
 『人々の語った言葉をありのままのかたちで使って、それでいていかに読みやすくするか』という視点で、極めて厳正な方法論に基づいて、インタビュ−イ60名のその時・それからが、727頁にわたって淡々と真摯に記され、胸を打ちます。
 『私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?』
 『人々の語る話にしばらくのあいだ耳を傾けていただきたい…。いや、その前に、まず想像していただきたい。』


二十歳のころ
立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ 新潮社

大学2年から3年までの長い春休みの読書三昧の中で、とくに胸ときめかせて読んだ懐かしい一冊です。1984年10月から8ケ月半、朝日新聞小説欄に連載されたものが反響を呼び、文庫版にもなりました。
 『取材にあたっては礼を失するな』という立花氏の教えのもと、54名のゼミ生が68名の有名無名の人生の先輩への取材に果敢に挑んだ、意欲作。
 『ラポ−ルを作るにはどうすればよいかというと、まず相手を理解することである。』『青春時代を取材するというのは、「謎の空白時代」を取材するということなのだ。』と、立花氏は長い序文を寄せています。
 (あの方が、あんな事を…)と思わず読み進め、最後には、生年順登場人物索引(ちなみに、1917年から1975年まで)・昭和史略年表の付録までついて、いたれりつくせりの内容となっています。
 きらめく言葉の数々の中から、あなたにとって大切な何かを、またもうひとつみつけてください。どうぞ、665頁にわたるこの本を、存分に楽しまれますように!


国際教養 石川伊織

ファウスト
J.W.ゲーテ

 1999年はドイツの大詩人ゲーテの生誕250年にあたっていました。それを祝う出版があい次ぎました。ご紹介したいのは、なかでも、ゲーテが20代から没する80代まで書きつづけた『ファウスト』という長大な戯曲です。ドイツに古くからあったファウスト伝説は、天才ゲーテの圧倒的な力業によって、人間と宇宙と生命を縦横に描き尽くす世界文学へと変貌を遂げました。正確な訳ではあるのだろうけれどまるで面白くない相良守峯訳(岩波文庫)。誤訳だらけだけれど名訳の誉れ高い森鴎外訳(ちくま文庫)。これらに並んで、記念の年にあたる1999年、柴田翔氏の訳(講談社)と池内紀氏(集英社・ただし第一部のみ。第二部は2000年初めに出版の予定)が刊行されました。19世紀の初頭にはまだ劇はすべて韻文で書かれるのが常識でした。芝居とは長大な詩だったのです。柴田翔氏は作品を詩として訳しました。池内紀氏はそれを断念して流麗な散文に訳されました。それだけでも比べて読んでみるに値する訳業です。


ファウスト/ネオ・ファウスト
手塚治虫 朝日文庫
 手塚治虫は『ファウスト』に強い関心を持っていたのでしょう。『ファウスト』に取材した作品を3作も残しています。そのうちの二つ、「ファウスト」と「百物語」が『ファウスト』に収められています。三作目が「ネオ・ファウスト」。それぞれに手塚独自の読み込みと解釈と翻案がほどこされた興味深い作品に仕上がっています。原作の翻訳と合わせて読んで見てください。



国際教養 黒田俊郎

夜と霧−ドイツ強制収容所の体験記録−
ヴィクトール・エミール・フランクル みすず書房

 アウシェヴィッツから奇跡的に生還した精神医学者の手記である本書の読後感は、けっして陰惨なものではない。こういっては妙な感じがするかもしれないが、それは不思議な開放感と静謐さに満ちている。アンネ・フランクの日記と同種の感慨をもたらしてくれるものといってよいかもしれない。
 本書は、最悪の限界状況下における人間の姿の記録であると同時に、人間の善意への限りない信仰の書でもある。アウシェヴィッツで両親・妻・子供を失った後でもなお、フランクルは、人間精神の自由さについて語ることができたのである。座右においてしばしば手にとる類の本ではないと思うが、生涯の友となりうる、そんな稀有な本である。


英文 石栗彩子

ニャーンズ・コレクション
赤瀬川原平 小学館

 世界の名画は数多くあるので、どれをみていいか迷ってしまうことはないですか?画家で選んでいっても多すぎるし、時代で選ぶのも難しいと思う方は、ネコで選んではいかがでしょう?
 さまざまな時代、さまざまなスタイルの絵の中にネコはひそんでいます。この本は、絵のどこかにネコが描かれた名画を30点集めた画集(?)です。非常に有名な画家の作品も、一般にはあまり知られていない画家の作品も取り上げられています。比べてみるとネコの描き方や役割もまったく異なって描かれています。
 この本をきっかけにネコについて考えるもよし、ネコを通して新たに知った画家の作品にもっと触れてみるもよし。ネコの描き方の違いから、背景となる文化や時代を考えてみるのもおもしろいと思います。そしてゆくゆくは、ここにあげられたネコの絵の実物をみに、いろいろな国に旅することもできます。
 ネコから世界が広がるかもしれない、薄いけれど、ちょっとあなどれない本なのです。


英文 渋谷義彦

アルジャーノンに花束を
ダニエル・キイス 小尾 芙佐訳 早川書房

 精神遅滞者チャーリー・ゴードンは32歳の男性で、知能の遅れを仲間からからかわれながらも、パン屋で働いている。頭が良くなりたいと望む彼は、まだネズミの脳にしか施されたことのない、脳の手術を受ける。その後、彼の知能の発達はめざましく、7ヶ月後には二十カ国語を喋り、あらゆる分野の学説を批判するほどの天才に変わる。その過程で、肉親や仲間から過去に受けた虐待やいじめ、手術担当の教授らの虚栄、欺瞞などが彼の眼によって暴露されていく。彼に対する周囲の態度も変わっていく。しかし、彼の無意識の中に閉じこめられていた、昔のチャーリーの影が徐々に大きくなっていく。
 チャーリー自身が記録する報告書の文体や内容に徐々に現れる知能の変化に注目。精神遅滞者に対する偏見について考えさせられた。アルジャーノンは同じ手術を受けた二十日ネズミの名前。


英文 福嶋秩子

大阪ことば学
尾上圭介 創元社

 気鋭の文法学者が、愛する大阪弁について語った本。
 これがそのまま大阪人の特徴や大阪の文化の本質について語ったものとなっている。


敬語はこわくない 最新用例と基礎知識
井上史雄 講談社現代新書

 これはよくある敬語の実用書ではない。敬語の変化の大きな流れを、実際の調査データに基づいて概説したものである。誤用の具体例もあげてあるので、正しい言い方を知りたい方にも役に立つ。現代日本語の動態を知りたい人にもお勧めする。


国際教養 中澤孝之

日ソ戦争への道
B.スラヴィンスキー 共同通信社

 ノモンハン事件から終戦までの詳細な日ソ関係を検証した画期的な書。ロシア側から見た対日参戦の内幕は興味深い。


盗まれた夢
A.マリーニナ 作品社

 ソ連解体後のロシア社会の混迷を鋭く描いた、現代ロシアで大人気のミステリー作品。


英文 大橋儀隆

ヨーロッパのキリスト教美術
エミール・マール 柳、荒木訳 岩波書店

 美術がある時代の総合的な代弁者になり、かついかなる芸術を鑑賞するにも必要な判断力と感性を培うのは知識と訓練だということを教えてくれる凡百の類書の中では白眉の書である。和訳も優れていて、英訳よりも原文を読みたくなるでしょう。最近、文庫本二巻でも出版されている。


人生をいかに生きるか
林語堂 阪本勝訳 講談社学術文庫

 人生論と言うとすぐに眉をしかめないで、読んでみてください。西欧文化、文明を熟知している中国人が、中国の伝統を基盤にして西欧の文化、社会をユーモアとウィットあふるる口調で論じたものである。この東洋の生んだユマニストの考え方や見方を知るのは、人生をみる素晴しい「色眼鏡」の一つになると思う。有名な英文法の著書の説明の仕方と例文に感銘を受けた方は納得がゆくであろう。


国際教養 堀江薫

憲法と国家−同時代を問う−
樋口 陽一 岩波新書

 夫婦で料理を作って楽しむダンディーな紳士だが、日本語よりもフランス語の方が上手だと思えるような難解かつ奥深い文章を書く著者が、われわれ一般人のために精一杯わかりやすく、憲法や社会や国家について書いてくれた本です。スゴイなー、とため息が出てきます。


フェルマーの大定理が解けた!
足立 恒雄 講談社ブルーバックス

 法律学が対象とするのは、どちらかと言えばグウタラな人間や、決して理想的であるはずもない社会の、さまざまな問題なので、勉強して疲れることがあります。そんな時、人類の愛と正義と平和のために孫悟空が戦うドラゴンボールZや、表題の本を読むとホッとします。170頁の「7も合同数なのだから、有理数を3辺に持つ面積7の直角三角形があるはず」が解けた時には、生きててよかったと思いました。


国際教養 村屋勲夫

円とドル
吉野 俊彦 NHK出版

 「為替」というと大変むずかしいとの先入観を持つ人たちが多いが、本書はその最良の入門書である。著者は、「円とドル」の関係がいつごろから始まり、日本経済に大きな影響を持つようになったのはいつごろからかを探ることによって、現在「円」が直面している問題を見事に明らかにしている。


不思議の国 アメリカ

松尾 弌之 講談社現代新書

 アメリカという国で州境を越えると、まるで別世界に入ったような気がする。売上税の税率や交通法規も違うし、アルコールを飲んでよい年齢も異る。中央集権的な日本に住んでいる者にとっては想像もできないような国柄なのである。一読をおすすめする。


幼児教育 原野明子

0歳児がことばを獲得するとき
正高信男 中公新書

 子育ては親が・・・と観念的に言われることは多々あります。この本は、観察を通して、授乳時の母子間交流(ヒトとサルの比較)、おうむがえしの意味、母親語(後に別の本では、育児語と筆者は呼んでいる)の役割等を明らかにしようとしています。だからといって、子育ては母親の手で!と強くいうつもりはありません。何もしゃべらなくても、言葉の基礎は0歳の頃から作っていることを理解し、保育者となった場合あるいは親となった場合に子どもにどんな環境を提供するかをあなたが考える一助としてほしいと思います。


幼児の笑いと発達
友定啓子 勁草書房

 保育園での0歳から6歳までの幼児の生活を観察し、笑いが生じ場面や様子をもとに、笑いの発達を考察しています。
 からだの快と結びつく笑いから「わかる」など知に伴う笑いへ、また人間関係の中で生じる笑いの変化など、笑いを主軸としながらも、笑い以外の部分の子どもの発達を実感を伴って知ることができます。笑いって何だろうと考えさせてくれる一冊でもあります。


イメージを読む−美術史入門−
若桑みどり 筑摩書房

 現在、千葉大学で教鞭をとる筆者が北海道大学で歴史や哲学や文学や建築を専攻する学生に対して行った集中講義をもとに書き下ろした一冊。美術史というと難しい感じがするかもしれませんが、一枚の絵の中に隠された物語を丁寧に解き明かす読みやすい本です。バチカンのシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの天井画についての話は、システィーナ礼拝堂のHP(http://www.christusrex.org/www1/sistine/0-Tour.html)で実際に天井画を見ながら読むと、より理解が深まるかもしれません。海外旅行で美術館を巡ろうと思う人はまずこの本から美術史理解をはじめてはいかがでしょうか。


英文 岡村仁一

シスター・キャリー(上)(下)
ドライサー 村山淳彦訳 岩波文庫

 この小説は1900年に出版された。丁度百年前の世紀末、中西部の田舎町から都会の生活にあこがれてシカゴに出てきた娘キャリーが、貧しい靴工場の工員から、やがてニューヨークで女優として大成するまでを描く。物語の最後、物質的に豊になっても心満たされないキャリーの姿はそのまま二十世紀を終えようとしている我々自身の姿と重なるのではなかろうか?今世紀を振り返り、二十一世紀を見据える意味でも是非読んで欲しい作品である。


国際教養 水上則子

遠景のロシア 歴史と民俗の旅
中村 喜和 彩流社

 一冊の優れた本が手の中にありさえすれば、時間や空間をこえて旅をするのもとても簡単です。この本は、私たちを、400年から1000年ほど昔のロシアへ連れて行ってくれます。夫を殺されて、冷静に冷酷に復讐を遂げる后妃や、人間なのか鳥なのか、正体不明の盗賊や、龍は退治できるのに美女に弱くて術中に陥ってしまう騎士などに会いたくなったら、この本を開いてみてください。


丸亀日記

藤原新也 朝日文庫

 朝日新聞の連載エッセイを集めたこの本では、著者の切り口の鋭さは、他の著作に比べるとやや抑えてられているところがありますが、その分読みやすくなっていて、初めての人にもおすすめです。これを読んで気に入ったら、「僕のいた場所」(文春文庫)や「東京漂流」(新潮文庫)も読んでみてください。


ダーシェンカ

カレル・チャペック 保川亜矢子訳 SEG出版/伴田良輔訳 新潮文庫

 「ダーシェンカ」は、チェコの作家・チャペックの家に生まれたフォックステリアの名前です。この本は、愛らしいダーシェンカの写真と、さらに愛らしいイラストと、チャペックが彼女に聞かせるために作ったおはなしでできています。犬の好きな人だったら、きっと手放せない本になります。原語であるチェコ語から翻訳し、初版本と同じ装丁を施したSEG出版の方を手に入れて宝物にしてもいいですし、新潮文庫で気軽に楽しむのもいいでしょう。





〜〜〜追悼 松木真言先生〜〜〜


松木真言先生は、1996年10月14日、県立新潟女子短期大学生活協同組合が設立されると同時に、初代理事長に就任されました。三年間にわたって理事長として生協の発展のためご尽力になられましたが、1999年12月に急逝されました。
「どこでもドアのかぎ4」発行にあたり、これまで松木先生がご推薦下さった本を再掲します。


アクティブ・マインド―人間は動きの中で考える
佐伯胖・佐々木正人編 東京大学大出版会

忙しい人程、いい仕事をしている人が多いナと常々実感し、感心させられている一人ですが、それはきっと人間が常に動き回り、外界に働きかけて認識をつくり出し、修正し、目的に向かってより確かな情報を抽出しているからできる芸当なのではないか。固いけど一読の要がありそうだヨ。

(「どこでもドアのかぎ」1996年版より)


三国志
吉川英治 講談社

吉川「三国志」のもとになっている「三国志演義」は後漢末の三国の鼎立期から、晋による統一に至る百年余の興亡史を叙した歴史物語である。史実そのものというより歴史ロマンとして読み継がれ、民衆の間に夢を培ってきた。吉川英治は、その「演義」をもとに彼なりの一大叙事詩を繰り広げている。私は、そうした吉川文学の楽しさももちろんだが、この「三国志」に百出する私たちの言語生活に欠くことのできない、四文字熟語の由来や歴史的背景や意味合いが良くわかるので、是非一読をお勧めする。

(「どこでもドアのかぎ2」1997年版より)


こころとからだ
五木寛之 集英社

気持ちよく生きて死ぬには、どうすればよいか。健康幻想を排し、心と体のコミュニケーションを大切にすべきだ。そして、自分にとって良い加減を見つけることこそ大切だ。という事を彼自身の実践・実感してきたことを率直に綴っている人生哲学書であり、読み手を何時の間にか納得させるから不思議だ。

(「どこでもドアのかぎ2」1997年版より)



県短生協教職員委員会ニュース第14号は、松木真言先生の追悼号となりました。松木先生と共に生協設立の礎を築いた方々に執筆していただいた追悼文をここに収録します。学生のみなさんも、松木先生を偲ぶよすがとしてください。



松木先生の言葉から

森川 英明

 突然、姉歯先生からEメールで連絡をいただき、松木先生の訃報を知りました。大きなショックを受け、気持ちの整理がつかないまま新潟に向かいました。幸い、葬儀に参列することができ、お別れを言うことが叶いましたが、数年前のお元気な姿を最後に新潟から離れておりましたので、信じられない気持ちでいっぱいでした。読経の流れる中、悲しみ、佇みながら、先生のいわんとされていたことは何だったのか、とふと考えていました。
 松木先生とは学内のいろいろな場面でおつきあいをする機会がありました。特に、私が下手の横好きで始めたバドミントンを通してフランクに付き合わせていただいたように思います。バドミントン部の練習では、技術だけでなく精神的なタフさを学生に求め、熱心に指導されておられた姿が今でも印象に残っています。当時、バドミントン部では卒業文集「やるぞ!」を毎年作成していましたが、その中に、松木先生が卒業生に贈られた以下のような文章を見ることができます。
 「人は、一人ではなかなか自分をコントロールすることは難しいものです。苦しい時、悲しい時、そして難しいことに遭遇した時、それに耐えて行けるのは、仲間がいるからです。(1994年)」
 「絶対取れない球と思っても、死に物狂いでダイビングして取りに行く。そうやって全身全霊を打ち込んで日々努力を重ねていると、今日は昨日よりも1センチそのボールのコースに近付けたと思える日が必ず来ます。そして、何時の日か、自分にとって今までは安打性のコースと思っていたコースにやがて飛び込めるようになるというのです。この途方もない、取れるはずのないボールに対して、取れるはずがないと始めから諦め、通り一遍の努力でよしとするか、取れるかもしれないと万分の一の可能性に掛けて努力するかどうかは、正に本人の人生観、価値観によるものだと思います。 (中略) ダブルスのチームメイトが、一生懸命自分をカバーして飛び込んで、転んで膝を擦り剥いて頑張っているのを見て、例え息が上がってバテていても自分も頑張らなければと思います。またそう思うのが自然であり、何時までもそうした社会風潮であってほしいと思います。(1996年)」
 松木先生は、県短生協の設立準備に発起人の一人として参加され、法人の設立に積極的に参画されました。新潟県リクリエーション協会や日赤奉仕団での活動など、これまでの多くのご経験をもとに、未熟な私たち設立準備委員会を引っぱっていって下さいました。実際に生協の設立にあたっては、学内での雰囲気作りや店舗の問題とは別に、法人設立に伴うさまざまな手続きが必要となりますが、松木先生はこれらの表には出ない地道な作業を冷静に進められていました。そして「県短生協」設立後は理事長の立場から、できたばかりのよちよち歩きの生協を安定軌道に乗るようにご尽力いただきました。
 いつも「なるようになるさ!」と楽天的に言っておられた言葉の背景には、冷静な思考や行動と共に、同じキャンパスで生活する学生たちや教職員を「仲間」として深く愛し、いざというときにはチームメートのために「転んで膝を擦り剥いて」まで頑張ろうとする気概を持っておられたように思います。
 しかし、いつまでも松木先生の死を悲しんではいられません。設立時のエネルギーと松木先生の私たちへの想いを忘れることなく、新たな時代をみんなで創り上げて行かなければならないと思うのです。このキャンパスに集う多くの「仲間」たちのために。。。

1990年4月から1997年3月まで生活科学科生活科学専攻に所属。1995年4月から学生部委員として生協設立の検討を始め、中心的役割を果たす。生協設立準備会・発起人会を経て、設立後は初代理事を務める。1997年4月、信州大学繊維学部に赴任。



松木先生を偲んで

渡辺 淑子

昨年三月末、私は退職のお別れに体育研究室をお訪ねしました。松木先生はいつもの笑顔で熱いコーヒーをいれてくださいました。半年前に大変な手術をなさったとは思えないお元気さでしたから、これが本当にお別れになってしまうとは思ってもみなかったことです。
国際教養や生活福祉ができる以前、被服、食物、英文、幼教の時代に、一般教育担当の全く専門の違う五人は教養科と呼ばれていました。科の会議も、会議というよりは、話し合いといった方がいいようで、私の研究室でお茶を飲みながらのなごやかなものでした。時々、松木先生がご自慢のコーヒーをポットにいれて持ってきてくださるのでした。
松木先生の体育の課題に、縄跳びの二重跳びがあったようで、決められた回数まで跳べずに、泣きべそをかいている学生がいました。体育の苦手な私は学生に同情して、そこまで厳しくしなくても、と松木先生に申し上げるのですが、やれるところまでやってみることが大事なのだから、というのが、いつも返ってくる答えでした。
松木先生にいただいた「朝の随想」というご本があります。四十歳頃にお書きになったものを集めて昭和六十三年に一冊にまとめられたもので、「人生の折り返し点、半生の記録」だとおっしゃっていました。ゴールまで完走なさるはずだったのに、と、このご本を見るにつけ心残りでなりません。「やれるところまでやってみる」という先生の信念が病後の先生に無理をさせたのではと思ったりもします。
私事ですが、夫が癌の手術をした折、教養科の先生方が激励し見舞って下さいました。おかげで夫は元気を回復しましたが、励まして下さった松木先生、そして平成四年暮れには哲学の林先生を癌で失ってしまいました。今頃、お二人は昔を語り合っておられることでしょうか。

1964年、県立新潟女子短大教養科に赴任。1993年より国際教養学科に所属。1966年、松木先生の本学赴任以来、27年間にわたって共に教養教育の中心となる。1996年10月、設立総会に際し、議事録署名人を務める。1999年3月、本学を定年退職。県立新潟女子短期大学名誉教授。



「姉歯君は自由人だね」

姉歯 暁

 松木先生が「長期療養にはいるので生協理事長をしばらく休職したい」といわれた時、それもほんの数ヶ月間の療養でまた復帰なさるに違いないと、みんなが信じていました。
 よく考えてみれば、階段の上り下りも、声の力のなさも、お体の状況がただならぬものであることを物語ってはいたのですが、あの松木先生が病に倒れることなどありえないという確信のようなものに加え、そう信じたいという気持ちが誰の胸にもあったように思うのです。なにかことを始めようとするとき、そこにはいつも松木先生の姿がありました。そして、慎重に事を検証する松木先生ならではのさまざまな発言にときにこちらも反発し、「なぜですか」といきりたつのですが、原野先生や私は、松木先生からすれば「背伸びはしているがまだまだかわいい娘たち」だったのではないかと、今振りかえるとそう思えて仕方がありません。
 廊下で出会いざまに「行くかい」と軽くさそってくださったスキー実習や水泳実習への学生に混じっての飛び入り参加した私たちは、そこで松木先生の初心者への見事なまでの教授法や一人一人への細かい心遣いに触れ、感銘を受けたものです。スキー場で、初心者だった原野先生を放ってひとりで滑っていたとき、私が松木先生にいわれた一言、
 「姉歯君は自由人だね・・・・よい意味じゃないよ。」
は、いまだに残る松木先生名語録の一つで、原野先生とよく話しては笑っています。
 そう、私は、松木先生におだやかに「しかられる」と、父にいわれているようで、反省するというよりはなぜかうれしくなってしまう、そういう箸にも棒にもかからないすれた「娘」でした。
 ところで、「県短に生協を」・・・学生や教職員の声がまとまりそうになったとき、松木先生は静かに「ここではできないのではないか」と返して、また私たちに「なぜですか」といわせました。過去に一度計画が途中で立ち消えになった歴史を知っている松木先生としては当然の意見でした。
 しかし、松木先生は生協設立に反対していたのではありません。その後、松木先生の疑問や不安を払拭できるような資料をと教職員、学生が底固めを行っていく過程で、資料を見せ、理事長職をお願いに行ったそのときに松木先生がいわれた一言を忘れることはできません。
 「もし県短生協がうまくいかなくなった場合、理事長や理事はどんな責任を負うのか。」
 松木先生は、法的な責務に実際の金銭的な責務も関係してくることを尋ね、その責務が重いことを聞いていました。
 こんな話を聞けば、これからまだ始めてみなければどうなるかわからないという不安で少しは時間がほしいという答えが返ってくるものと予想していました。ところが、話を聞き終わって資料を読み込むと、「いいでしょう。」とその場で県短生協初代理事長を引き受けられたのです。
 松木先生が理事長を承諾して下さったことで、生協設立の話も加速度的に進みました。
 県短生協がやっと落ち着き、これ以降逆にマンネリ化しないための方策を考えねばといっていた矢先、生協の礎を一緒に築かれてきた松木先生がいなくなる、これはこれまで考えもしないことであり、いまだに実感がわかないというのが本当の気持ちです。
 松木先生が長期療養にはいるとのことでほんの数ヶ月間の理事長代行をつとめるはずであった私が、今、こうして理事長の仕事を引き継いでみると、いかに松木先生のお仕事が多岐にわたるものであったのかを実感します。
 私がイギリスに在外研究中だった1997年末、松木先生からのお手紙をちょうだいしました。私の研究や健康のことを気遣う文章とともに、生協の経営状態や、学生、教職員委員会それぞれの活動内容の様子も達筆で巻紙にしたためられており、松木先生のこまやかな心遣いが文章の合間から見え隠れしていました。未だに先生の研究室に電気がついていないことが不思議でしかたがありません。理事会に先生の姿がないことも、今日はお休みとしか考えられません。
 これからも、先生とともに生協の運動は続いていきます。とうてい、この悲しみからは逃れようもありませんが、先生だったらどうするだろうか、そんなことを考えながら、今、また新しい局面を迎えようとしている県短生協をみんなで盛り立てて行きたい、そう思っています。



一層の連帯を!

石川 伊織

 松木先生が亡くなってからもう2ヶ月にもなります。今でも、体育館の方から先生のお声が聞こえてきそうな、そんな錯覚にとらわれることがあります。
 入院なさったという知らせがはじめて届いたのは一昨年のことでした。その後、回復なさって、また頑張っていただけると思っておりましたが、先生にとってはそれからの毎日は命を賭けた人生の総まとめの日々だったのではなかったかと思います。それを慮ることができず、お元気になられたとばかり喜んでいた自分自身を、今は悔やんでいます。
 生協のホームページの件で、学生部委員会にご協力いただいてもう一度事務局に働きかけようと、松木先生と相談の機会をもったのは、昨年の暑い残暑もようやく終わろうとしていた秋口でした。先生は、会議に出席するにも階段を昇るのがつらいからと、第二体育館脇の先生の研究室に私たちを招集なさったのでした。そうこうするうちに大学祭も近づき、教職員委員会でも何かしようと、いつもの茶話会を頻繁に開くようになりました。松木先生にもお声をおかけしたのですが、お具合はさらにお悪かったのだと思います。けれども、まさかそこまでとは、私たちの誰もが思ってもみなかったのです。
 とうとう最後の最後まで、私たちは、まさかと思いつづけたのでした。12月1日から松木先生がご闘病のため長期休職なさるとわかるや、生協では急遽姉歯先生を理事長代行に指名しました。そのときでも、4月までに松木先生が戻ってこられるなら、と考えていたのです。まさかその直後にお亡くなりになるなどと、私たちの誰が考えていたでしょうか。
 配慮が足りなかったことを悔やまずにいられません。そして、ご冥福をお祈りすること以外には何もできなかった己を悔やんでいます。けれども、松木先生。あなたの後に道は残されました。私たちはその道を広く美しく豊かで実り多いものに仕上げていかなくてはなりません。どうか、やすらかにお休みください。そして、生協理事会・教職員委員会・学生委員会の皆さん、厳しい経済状況ではありますが、生活の場における自治の確立をめざして、一層の努力をいたしましょう!



松木真言:春夏秋冬

黒田 俊郎

 松木先生の告別式に参列し、旧友たちの心のこもった弔辞を聞きながら、私は、気がつくと松木先生の春夏秋冬を夢想していた。
 春、松木先生は、学生たちとサイクリングに出掛けていく。自転車という19世紀末に登場したモダンな乗り物に松木先生は妙に似つかわしい雰囲気をもっていた。五月の能登路(なぜか私のイメージでは、サイクリングは能登半島でなければならなかった)で自転車を駆るとき、松木先生は、きっと本来の自分自身に戻っていたのだろう。
 夏はキャンプやホステリング、そして登山の季節だ。私は手つかずの自然よりカフェや映画館のある街角を愛する人間だが、告別式で少し古びた山の歌を唄っていた仲間たちが、もしもどこかの山の稜線で松木先生のたましいに出会うことがあるならば、山登りも捨てたものではないのかもしれない。
 何年か前の秋、短大の学園祭で松木先生の若い頃の写真が飾られていた。そこには、颯爽としたモダンな松木先生の風貌があった。ビリヤードがうまいことは知っていたが(完敗したことが何度かある)、松木先生は、きっとダンスもうまかったに違いない。いったいどんな女の子とダンスを踊ったのだろうか。
 冬、松木先生は、学生たちとスキーに出掛けていく。私は、松木先生とは、短大でいつも議論ばかりしていたような気がする。原則や総論では賛成なのだが、各論にはいると、反対意見ばっかりいって、松木先生は苦笑していた。議論はそこそこにして、一度一緒にスキーに行けば良かった。しかしサイクリング・登山・ビリヤード・ダンス(?)・スキーとならべてみると、松木先生はなんてハイカラな趣味=仕事をもっていたのだろう。きっと先生が生まれ育った高田という街には、そんな時代を先取りする気風があったのだと思う。
 ふと気がついてみると、長い弔辞は、高田高校の校歌の一節で結ばれようとしていた。松木先生、お別れは言いません。またどこかでお会いしましょう。



「失礼な、謝れ!」

水上 則子

 松木先生には、生協の設立準備会や理事会などで、計り知れないほどお世話になりました。
 しかし、私にとって一番大きな記憶は、ある会議の席上でのできごとです。
 そのとき、一つの重大な問題をめぐって、鋭く対立する意見がいくつも出され、議論は紛糾していました。その中で、一人の先生が、強い言葉で信念を述べられました。それは、人によっては「理想論」と受け取られるものだったかもしれませんが、・・大学で理想が語られないとしたら、いったいどこで語られるというのでしょうか。
 しかし、その理想の重みに、出席者一同が考え込んでいたときに、一人の教員が、あざ笑うかのようにこう言いました。
 「まるで文学少女の寝言のようだ」
 その発言はまさにひとつの暴力とも言うべきものでした。あまりのことに、会議室は静まり返りました。そのとき、間髪を入れずに、
 「失礼な、謝れ!」
と叫ばれたのが、松木先生でした。
 松木先生のこのひとことはその場を救い、会議が終わった後もずっと私の心に残りました。意見が対立するとき、思いがけない言葉の応酬が起こることは決して珍しいことではありません。しかし、この短大には、毅然として歯止めをかけてくださる方が、少なくとも一人はいるのだ、ということがわかりました。それはほんとうに大きな安心感でした。
 先生を失った今も、私の中ではまだあのひとことが響きつづけています。こうして心の中に、先生のお声やお姿を持ちつづけていれば、いつかまた同じような「暴力」に出くわしたときに、今度は自ら立ち向かうことができるのではないか、という気がします。先生が身をもって教えてくださったことを無にしないためにも、立ち向かえる人間でありたい、立ち向かえる人間にならなければいけない、と思っています。



筋(すじ)

原野 明子

 「そんなことありませんよ」。ある日、車でお宅までお送りする途中、松木先生に対して姉歯先生と私が失礼ながら申し上げた言葉。これは生協を設立しようという気運が短大内で出始めた頃、「昔も生協を作ろうとしたことがあったが、実現しなかった。今回も無理じゃないかな」と松木先生が仰ったからでしたよね。「昔とは教職員の人数も学生の人数も違う」、「そう仰るなら発起人会に参加してみて下さい」。私たちは、そう申しました。松木先生は気を悪くされただろうな。。。私は内心そう思いました。しかし、発起人会の当日、松木先生は会に参加して下さいました。そして、発起人代表になって下さり、無理だと仰ったのに生協設立のために多大なご尽力を下さいました。娘のような年の者から生意気なことを言われたにもかかわらず、耳を貸さないどころか、体を張って下さったその潔さと懐の大きさに、今思い返しても頭が下がる思いがします。
 これは生協のことだけではありません。「筋を通す」とよく仰っていただけに、潔く筋を通される姿は学科会議の時にもその他の時にもよくお見かけしました。松木先生の筋と私の筋が違うために、よくぶつかることもありました。体育のカリキュラムのことではよく意見が衝突しました。きっと先生は私のことを苦々しく思っていらっしゃったのかもしれませんが、心広く受け止めて下さいました。「江戸の敵を長崎で討つ」ようなことをなさらないと信頼できるからこそ、先生には何でもお話することができました。深く感謝しております。かつ、ご心労をおかけしたであろうこと、今更ながらお詫び申し上げます。
 南国出身の私に、スキーを初めて教えて下さったのも松木先生でした。スキー実習の初心者班で、学生と同じように分け隔てなく教えて下さいました。だから私も学生と同じように習うことが出来ました。自然なお心遣いに感謝したことを思い出します。あの時教えていただいた基礎があったからこそ、その後、怖がることなく滑ることが出来るようになりました。そのお陰で短大内の教職員の方々とスキーを楽しむ経験ができましたし、今までになかった身体感覚を経験することができました。最近、寒いからとスキーから遠ざかっていますが、せっかく松木先生に教えて頂いた財産を絶やさぬよう、再開しようと思案中です。スキーだけでなく、水泳も松木先生の班で習いました。体を動かすことは、がむしゃらにすればいいというものではないことを、プロセスを追って丁寧に教えていただくことで、私の体育嫌い(スポーツというべきでしょうか)も直っていきました。
 最後にご出席になった学科会議では、ご自分の病状と今後の療養計画まで包み隠さずお話になりましたね。先生のご覚悟と強さを思い知りました。私には先生のような強さは到底真似できようもありませんが、ここぞという時に踏ん張れる力と自分の反対意見が通った時にそれに従う潔さは、少しでも真似できるようにしていきたいと思います。
 7年間という短い間ではありましたが、本当にお世話になりました。どうぞご家族のことと共に、私たちのことも見守っていて下さい。
ご冥福をお祈り申し上げます。



松木先生のコーヒーの味

登坂 康史

 松木先生が亡くなられたことを伊藤専務が現在の私の職場である市民生協にいがたに知らせてくれたのは、先生が亡くなられた日の夕方近くだったと思う。伊藤専務とは理事長が不在になった時に法的には専務理事が理事長職を引き継いでいることなど、生協法や定款に基づく事項を打ち合わせたことを覚えているが、結局その日は仕事が手に付かず、県立女子短大生協の一員として松木先生といっしょに仕事をさせていただいた時期のことを思い返す日になった。
 先生と初めてお会いしたのは県立女子短大に生協を設立するための、何回目かの準備会の時であった。記憶が定かではないが、飯田先生が松木先生を準備会に誘ってくれたのではないかと思う。私は信州大学に行かれた森川先生や姉歯先生をはじめとする先生方といっしょに、新潟大学生協の専務理事として設立のためのお手伝いをする立場であった。
 設立の準備がすすんでいくなかで理事長には松木先生に就任していただきたいというのが、準備会の一致した考えとなった。
 大学生協を設立するという方法で県立女子短大の福利厚生をさらに充実させるという願いを先生はごく短時間で理解され、運営の確立や経営維持への懸念など諸問題が数多くあるなかで、それが県立女子短大の学生や教職員のためになるならと、就任を引き受けてくれた。
 96年10月の創立総会以後、私は県立女子短大生協の初代理事長と初代専務理事という立場で松木先生に仕えることになった。月1回程度開催する理事会の日の午後は松木先生と伊藤店長(当時)と3人で、先生の研究室で打ち合わせをするのが恒例になった。先生は必ずご自分でコーヒーを入れてくれた。そのコーヒーがまた楽しみだった。曜日によっては打ち合わせの後、新潟大学医療短大の体育授業に出向かれ、また短大に戻って理事会の議長をされるというご苦労をお願いすることも度々だった。
 その間に、県立女子短大生協は経営面での懸念を克服し、事業運営も確立された。新潟大学生協との連携という理由もあるが、全国で200余りの大学生協のなかで小規模大学での生協の事業運営確立という点では典型事例となったと思う。
 松木先生はその先頭に立って尽力された。理事会をはじめとする諸会議への参加、学生委員会を中心にした学生たちのさまざまな活動への気配り、教職員委員会の活動、そして経営面や店舗運営を担当する私と伊藤店長へのご指導。
 そのなかで特に先生が配慮されていたことは、経営面での失敗は絶対にしてはならないということと、そしてなによりも生協を県立女子短大みんなのものにしていくということであったと思う。生協は一部の学生と教職員で運営される組織ではなく、みんなが参加してくれる組織に育てるのだという意志が先生の発言や行動に貫かれたものだった。日常の業務運営への指導やご自分が事務局との打ち合わせに参加されるときも常にそのことが念頭置かれ、重視されていた。
 県立女子短大教授としてのご活躍・県内の体育スポーツ界でのご活躍等、先生の多くのご功績のなかに、県立女子短大生協の設立と運営確立に尽力され、大学生協運動の発展のために奮闘されたのだという事柄が加えられ、そしてそれは長く記録されるべきことであると思う。
 松木先生が先頭に立って築き上げられた県立女子短大生協が、理事会・教職員委員会・学生委員会のみなさんを中心にして、先生のご遺志を受け継いでさらに発展されることを心から願っている。そして現在は大学生協から地域生協に移って仕事をしている私自身も短時間ではあった先生からのご指導を心にしっかり刻んで、日々の職務に励みたいと思う。

1996年県短生協設立発起人会発足時、新潟大学生協の理事として、本学生協設立の支援に携わる。 設立後は専務理事として生協運営の中心となる。1998年秋より市民生協にいがた生活協同組合勤務。



「一生懸命に説明しようとしている事は、伝わりました」

伊藤 透

 松木先生は、「人が残すモノは、集めたモノではなく、与えたモノ」という作家三浦綾子さんの小説にでてくる考え方を最後の最後まで実践されたのではないかと思います。これは、私が目標としている生き方のひとつでもあります。先生とこの話をしたわけではありませんが、私自身生協に関わる中で少しでも誰かに与えるようになりたいと思っています。現実はいろいろな方からもらいっぱなしで与えることなどできないのですが。そういう意味で先生は私の目標になる方でした。
 先生がいらっしゃらない事が未だに信じられないのは、先生が私に与えて下さったモノが、沢山あって、ずーっと残っているし、なくならないからなのだと思います。
「生協は自らの手で自らの生活を豊かにする『運動体』だ。」
「さまざまな部分で、犠牲的な精神・考え方は必要だ。」
「学生の課外活動に、私はある意味で命を掛けている。(もし事故とかがあった場合は、どんな言い訳をしても責任をとらなくてはならい。その覚悟はできている。)」
 昨年(99年度)の卒業式の前にこんなお話をしました。
「今年の卒業パーティーの参加少ないようですね。」(伊藤)
「あんなパーティーは、私もいかないよ」(先生)
数日後
「卒業式が終わった後で、そのまま第一体育館に移動してで全員参加で昼食会なんかいいんじゃないかね。1000円ぐらいの会費で生協で準備できるかね」(先生)
「いいですね。できると思います。」(伊藤)
「教授会で提案してみようと思うんだけどね。」(先生)
実現はしませんでしたが、先生は「いかないよ」だけでなく、学生のために考えていたのです。
 こんな事もありました。
 東京で大学生協全体に関わる問題がおこりその事を、先生に説明した時の事です。
 うまく説明できない私に対して、
 「伊藤さんの説明は、わかりませんが、一生懸命に説明しようとしている事は、伝わりましたから、伊藤さんを信じましょう。」
 98年の12月末の忘年会での言葉も忘れられません。
「理事長は、勘弁してもらうけど、生協とはずーっとつき合う事になるんだろうね。」
 私には先生から与えられたモノが沢山ありますから、今後もずーっとおつき合いをさせていただく事になります。

県立新潟女子短期大学生協専務理事・新潟大学生活協同組合常務理事。



「松木君」て呼べるのかな

星野 裕

 私が理事になるときに、理事会では学生も教職員も同じ理事なのだから松木先生のことは「松木君」て呼べるのかなと冗談半分に話していました。するとそれが松木先生の耳に入ってしまい、しまった!と思っていたら「これは君たちの生協なのだから、教職員に対しても積極的に意見を言いなさい。」とおっしゃってくださいました。
 当時は先生方に対してかなり態度が大きかったこともあり、そんな松木先生の言葉をそりゃそうだ、当たり前だなくらいに思っていました。しかし、今になってみると松木先生の学生委員や理事との関わり方は松木先生にしかできないものだったのだなと感じます。
 松木先生は、学生委員会の活動報告にも熱心に耳を傾けてくださり、それだけでなくアドバイスや積極的に協力もしてくださいました。そのころ私は学生委員長ということで、他大学との交流の場へ出ることが多かったのですが、常に県短生協の教職員との関わりはかなりの評価を集めました。
 そういった日々の理事会や学生委員会での活動以外にも県短生協が誇れるものはたくさんあります。学生委員会と教職員委員会と理事会が合同で飲み会を開いて、盛り上がってしまうのも県短ならではだと思っています。短大の外でざっくばらんにいろんな話をしたことも、学生と教職員の信頼関係につながっていたのかもしれません。私が一番想い出に残っているのは、生協ができた年の忘年会で瀬波温泉に行ったことです。松木先生にお酌をもらったことや、これからの県短生協について熱く語っていたことが思い出されます。
 最後にお会いした98年の忘年会でも、自分の体のことと同じくらい生協のことを気にかけていらっしゃいました。卒業し、編入していた私の将来まで気にかけてくださり、これはがんばらなくてはと思っていました。それから亡くなられるまで1度も会いに行かなかったことは少々悔やまれます。でも、松木先生が望んでいるのは強く生きる私たちと発展し続ける生協だと思うので、これからもがんばっていきたいと思います。

1996年4月、県立新潟女子短期大学英文学科入学。生協初代理事、第2代学生委員長を務める。1998年4月、都留文科大学編入学。



松木先生の視線

石見 友香

 生活福祉専攻だった私は体育でも松木先生にお世話になりました。水泳・スケートの野外活動では、どちらも松木先生のクラスで指導を受け、先生の温かさを感じたように思います。松木先生は到達点で評価をするのではなく、その人の努力を大変評価してくださる方でした。松木先生の評価が励みになり、そして、自信につながっていきました。
 このことは生協の活動でも言えると思います。理事会で学生委員会の活動報告をすると、その取り組みをほめてくださったり、さらによい活動にするための助言などをしてくださったりと私たちをやる気にさせてくれました。松木先生がいらっしゃるときの理事会はいい意味での緊張感もあり、生協の活動について考えられるいい時間だったように思います。
 また、松木先生は「学生が必要としていることは何か」という視点を常に持っていた方ではないでしょうか。食堂がなくなるかもという話が出たときに「食堂は学生にとって必要だから」と、本当になくなってしまったら生協で食堂をやるという気持ちを持っていました。松木先生は私たちに挑戦することを教えてくれたように思います。県短生協は経営面、学生数などから考えてできないことも多いのかもしれません。また、新しい生協なので失敗もあります。しかし、小さい・新しい生協だからこそ、学生のニーズに合わせて柔軟に店舗づくりや運営ができているのではないでしょうか。その良さを生かし、常に挑戦する生協であってほしいと思います。教職員の方々と学生委員会の皆さんで協力し、伊藤専務や山吉店長のお力も借りながら、「みんなの県短生協」をこれからもつくり、支えていってください。
 松木先生、本当にありがとうございました。これからも県短生協を見守っていてくださいね。ご冥福をお祈りいたします。

1997年4月、県立新潟女子短期大学生活科学科生活福祉専攻入学。第3代学生委員長。1999年4月つくば国際大学に編入学。



「熱い血を持った教師に」

米山 沙織

 松木先生への追悼文を執筆するにあたって、先生との様々な思い出が次々と胸に浮かびなかなか筆が進みませんでした。
 幼児教育学科の学生として松木先生の授業を受け、先生の優しさと厳しさを肌で感じてこれたことを、本当に幸せに思います。
 先生は、亡くなる直前まで私たちにご指導をして下さいました。その授業は、先生の情熱と気迫が痛いほど伝わってくるもので、私はそこで「真の教育者」の姿を見ました。先生の生き様に触れ、自分の体が震えてくるのを感じました。
 寒い体育館の中、先生は気丈に授業を続けられました。その姿は今でも私の脳裏に焼き付いています。一言一言かみ締めるように話し、模範演技をなさいました。
 「熱い血を持った教師になってください。」
この言葉を忘れることが出来ません。教育へのひたむきな姿勢と、熱い情熱と持ち、常に我が身に問い続けること。教育者になることへの覚悟を教えていただきました。松木先生の熱く、自分に厳しかった生き様をずっと覚えていようと思います。
 4月から幼稚園教諭として自分の身を立てます。先生の教えと、姿を胸にしっかりと確かな足取りで歩んで行きます。
 先生は最後の授業で私たちに「ありがとう」とおっしゃって下さいました。私も先生への感謝の気持ちでいっぱいです。
 松木先生は私にとって誰よりも尊敬している師であります。 松木先生、ありがとうございました。

   松木先生を想って創った手紙があります。ある授業で架空の人物にあてたものです。

カスレ様へ
 願う気持ちがどんなに強くても、何も出来ない時があります。
 生を受けた誰もが経験することです。ただ静かに受け入れることが必要な時なのです。
 笑うのに時があり、泣くのに時があります。
 私たちの時は流れています、そして私たちには素晴らしい思い出があります。
 そうです、カスレ様。思い出は最高の魔法です。
 きっと忘れないで下さいね。
共に悲しむ友より

1998年4月、県立新潟女子短期大学幼児教育学科入学。第4代学生委員長。



初代理事長・松木真言先生と第二代理事長・姉歯暁先生
1999.4.12生協お花見(じゅんさい池公園にて)