家族の限界・国家の限界 または自然の捏造

『現代社会におけるグローバル・セシックス形成のための理論的研究』
平成15年度〜18年度 科学研究費補助金 基盤研究(B) 課題番号15320005
最終報告書所収 2007年3月19日


1 《家族−市民社会−国家》という三項関係

『法哲学』の正式な書名は、Grundlinien der Philosophie des Rechts oder Naturrecht und Staatswissenschaft im Grundrisse、つまり『法の哲学または 自然法と国家学・要綱』である。ここでは、「法の哲学Philosophie des Rechts」は、「自然 法と国家学Naturrecht und Staatswissenschaft」と言い換えられる。ヘーゲルの言う「自然法 Naturrecht」は、実定法positives Rechtとは区別された哲学的法philosophisches Recht (PhR35 §3)である。すなわち、表題では哲学的法である「自然法」の理論で実定的な「既成 国家」を批判しつつ、哲学的な「国家」を実体化することが意図されている。しかも、そのた めの梃子である「自然法」論は社会契約説批判をその内容とする。哲学的法としての「自然法」 を手段としながら、自然法論の一方の帰結である社会契約説を批判するのである。

ヘーゲルの批判は、社会契約説が国家の成立を個別意思相互の契約によって説明する点に向け られる。ヘーゲルによれば、個別意思相互の一致によって成り立つのは特殊意思に過ぎない。 個別意思をいくら集積させようと、契約によって成立する特殊意思からは「国家」という普遍 意思は生まれない。では、普遍意思はどこにどうやって成立するのか? ヘーゲルの答えは明 快である。普遍意思は「成立」したりはしない。なぜなら、普遍意思は常に/既にそこにある から。これを把握しないのは、個別意思が無教養だからである。したがって、必要なのは、未 だ存在しない(と個別意思が妄想する)普遍意思を成立させることなどではなく、常に/既に そこにある普遍意思が自らの本質であることを個別意思に自覚させること、すなわち教養形成 である。

周知のように、ヘーゲルの『法哲学』「人倫」の章は、《家族−市民社会−国家》という三項 関係で展開される(註1)。《家族−国家》という古代 的な二項関係でもなく、《市民−国家》という近代の契約説的な二項関係でもなく、《家族− 市民社会−国家》という三項関係によって、社会契約説が批判される。個別意思はこの三項関 係の中には登場しない。個別意思が直接に国家を形成したり国家と向き合ったりしているので はないからである。しかし、他方、ヘーゲルの三項関係には、家族と国家とが常に/既にそこ にある普遍であり実体であることが前提となる。また、この三項関係は、個別と普遍が特殊に よって媒介されるという構造をとっていない。一方の普遍である家族と他方の普遍である国家 が、市民社会(=経済社会)という特殊によって媒介される。しかも、媒介項である市民社会 の評価は低いのである。

こうした三項関係から、『法哲学』の意図が見えてくる。第一の目標は、市民社会の現実を受 け入れて、これを媒介項として理論に組み込むことであり、やっと形を現し始めたばかりのド イツの市民社会を積極的に理論化することである。第二の目標は、第一の目標を可能にする根 拠として、家族と国家を近代化すること、したがって、ドイツの国民国家化とそれを支える近 代的家父長制を確立することである。そのためには、法・倫理・国家・家族といった普遍と近 代における個別者の自由とをどう両立させるかが問題となる。ヘーゲルが模索していたのは、 個別主体の実体化とそれら個別主体相互の「契約」に基づく「(擬似)普遍的」な国家を否定 しつつ、かつ自由の否定にも至らない道はあるのか、という課題であった。ヘーゲルはそうし た道があると答える。それが彼の考える「国家」と「家族」であるのだが、はたしてこれは妥 当な結論であろうか? 本稿は、この問題をジュディス・バトラーJudith Butlerを手がかり としながら考察する。

2 家族

この三項関係を成り立たせるためには、身体や性という所謂「自然」を、家族や国家という 「人工物」と媒介する神話が必要である。しかし、ヘーゲルは家族を「自然」であると規定す る。人倫Sittlichkeitを構成する三項関係において、家族は「自然的な精神」であり、その 「分裂態ないしは現象態」が市民社会であり、「特殊な意思の自由な自立(=市民社会:筆者 補足)を許しつつ、普遍的で客観的な自由」であるのが国家である(PhR87-88 §33)。国家も 最初の「民族の有機的な精神」から普遍的な世界精神へと展開する(PhR88 §33)。この最初の 段階が「国民Nation」ではなく「民族Volk」であることは注意すべきだろう。「民族」の方が 身体的・地理的・物理的条件に制約された概念であり、その意味でより自然に近いものとされ ている、と考えられるのである。

家族を自然的であるとするのは、家族が身体と性とに直接結びつくからである。「その(=人 倫の:筆者補足)最初の定在は再び自然的なものである。それは愛Liebeと感覚Empfindungの 形式を持ち、すなわち家族(傍点はヘーゲル)である。ここでは個人は自分のそっけない人格 性Persönlichkeitを廃棄して、自分がひとつの全体の中にいることを自覚する(PhR91 §33Zu.)」。ここで言う「愛」は、まずは性愛のことであり、親子の愛へと発展するだろう。 愛は家族の一体感を自覚させる。理性的な自覚ではなく、感覚Empfindungによる自覚である。 家族の中では個別の主体である必要はないから、市民として必要になる人格性は家族において は不要である。

この理論が、身体と性という所謂「自然」を根拠にして家族の自然性とその普遍性とを一緒に 説明しようとするものであることは明らかだ。しかし、自然から精神へという単純な議論をし ているわけではない。引用の中でヘーゲルは「再び」と言っているが、これは、§33の補遺の 冒頭で、自由な意思を定在化させるために、意思は感性的定在である物件、すなわち外的な物 質にかかわらなくてはならない(PhR91 §33Zu.)、と述べていることに対応している。議論は、 自然物を最初の対象とする段階から抽象法へ、抽象法から道徳性へという議論を経て、人倫の 冒頭で再度自然に回帰しているのである。してみると、家族が自然であるとはいっても、この 自然性は身体や性のような自然性と同レベルのものではありえない。家族の自然性はむしろ構 築されたものである。

「人倫」の家族論の冒頭は次のように始まる。「家族は、精神の直接的な実体性として、精神 の自己感覚的なsich empfindende統一、すなわち愛を使命とする。したがって、家族の志操 Gesinnungは、精神が自分の個体性の自己意識をそれ自体で絶対的にan und für sich存在 する本質態であるこの(家族の)一体性の中に持つことであり、この一体性の中では、ひとつ の人格としてではなく、(家族の)構成員としてあることである(PhR307 §158)」。構築され た自然であった家族が、ここでは直接的な実体性になっている。構築の痕跡は一体性の中に消 し去られている。こうした家族は、婚姻によって成立し、子どもの養育によって解体する (PhR309 §160)。してみると、この家族はきわめて近代的な家族であり、核家族である。核家 族の使命は次世代の再生産に尽きる。ヘーゲルも家族の使命についてこれ以上には語らない。 したがって、身体と性は家族における根本的な問題である。

では、性別とは何か? 「両性という自然的規定は、この規定の持つ理性性によって知的なま た人倫的な意義を得る。この意義は両性という区別によって規定されているのであるが、概念 である人倫的実体性は、具体的な統一としての自分の生命性をこの区別から獲得するために、 みずから両性という区別へと自分自身を分裂させるのである(PhR318 §165)」。これはすなわ ち、個々の男女にとっては自然的な規定である自身の身体とその性別は、自己展開する精神の 自己運動という観点から見れば、人倫的実体それ自体が自己分裂して、男性・女性として産み 出したものだということである。「自然」であると見なされたものは、実は「構築されたもの」 である。このことを、ヘーゲルのテキスト自体が語ってしまっている。しかし、性別はあくま でも「自然的規定」として固定される。「したがって、自己分裂する精神のその一方の側は、 独立して存在するfür sich seiende人格的な自立性へと、自由な普遍態を知りかつ意思 することへと、概念把握する思惟の自己意識へと、そして客観的な最終目的を意思することへ と向かい、――自己分裂する精神のもう一方の側は、具体的な個別態と感覚という形式で実体 的なものを知りかつ意思することであり、一体性のうちで自らを保持する――前者は対外的な 関係において力を持ち、実行する者であり、後者は受動的で主観的な者である。したがって、 男性は国家や学問等において、あるいは外界および自分自身との闘争と労働において、自分の 現実的で実体的な生活を営む。それゆえ、自分自身との自立的な合一Einigkeitを戦い取るに は自分を分裂させることによるしかない。男性がこの合一を静かに直観し、感覚的で主観的な 人倫性を持とうとすれば、これを家族の中に求めることになる。女性は家族の中に自分の実体 的な使命substantielle Bestimmungを持ち、こうした家族的恭順Pietätの中に自分の人 倫的志操Gesinnungを持つのである(PhR318-319 §166)」。

引用が示すように、165節から166節は「したがってdaher」で結ばれている。しかも、166節の 冒頭は二つの側面が列挙されているだけであるのに、途中からこれまた突然に「したがってdaher」 とつながり、この前者が男性で後者が女性であるとされる。なぜ「したがって」なのかは説明 されていない。むしろ、ヘーゲルにとっては、この分裂が男女の性を帰結し、そのどちらが男 性でどちらが女性であるのかは自明だったのである。人倫的実体の分裂を自然的規定で説明し ようとしているが、この自明性を説明しなければ、説明は説明として機能しない。しかし、ヘ ーゲルにはその必要は認められなかったのである。なぜなら、それは自明であるからだ。

166節の補遺によれば、女性は、高度な学問や哲学、ある種の芸術上の創作といった、普遍性を 要求される領域には向いておらず、思いつきや趣味はあっても理念を持ってはいないという (PhR219 §166Zu.)。これがヘーゲルの言う女性の「自然的規定」である。ここから、先にも引 用した「家族において女性は自分の実体的な使命を持ち、家族的恭順Pietätにおいて自分 の人倫的志操を持つ」という、家族内での役割が説明される。これらの性質は女性の「女性性」 であるとは言えよう。しかし、必ずしも自然性ではない。「女性らしさ」ではあっても、女性 の自然的規定とは言えない。問題はこう言い換えてもよい。すなわち、ヘーゲルの議論は、自然 =本来性によって現実=事実性・実定性を説明しようとするものだが、この説明は、何が本来的 で何が自然であるのかを確定しない限り説明にならない。事実性を本来性によって説明しようと しても、本来性は事実性からしか把握できないのであるから、この議論は原理的に不可能である。 かえって、本来性を事実性でもってなぞることで、この説明は、意図とは逆に、事実性から本来 性を捏造することになる。もちろん、ヘーゲルにはgender概念はない。しかし、これを用いて同 じことを言うなら、genderをsexで説明しようという試みは、sexそれ自体の本来性を証明できな い限り、同語反復に終わるばかりか、かええてsexの本来性なるものを捏造する、ということで ある。そして、この証明は原理的に不可能なのである。ヘーゲルの家族論の試みはまさしくこの 不可能な同語反復である。

166節の補遺であげられている女性性に対応する男性性、したがってヘーゲルの言うところの男 性の「自然的規定」の具体的な内容は、実はどこにも語られていない。両性の「自然的規定」 と言いながら、実際には、男性はun-markedであり、女性はmarkedなのである。それも正常な男 性の欠如態としてmarkedなのである。したがって、女性の「自然的規定」については語るべきこ とがあるにせよ、男性のそれについて語る必要はない。また、女性の自然的規定によって女性の 役割が説明されたが、これに対応する男性の役割、すなわち、「国家や学問等において、あるい は外界および自分自身との闘争と労働において、自分の現実的で実体的な生活を営む」という役 割は、説明のための自然的規定を欠いているばかりではなく、家族の中では成り立たたず、市民 社会や国家へと移行するとされる。これを言い換えると、自然的で連続的な差異を「両性の自然 的規定」すなわち「男女」という対立項にカテゴライズすることで、家族は市民(=男性市民) を産出する装置として位置づけられるのである。

3 市民社会

上述の家族の位置づけは、しかし恒久的なものではない。家族の使命は子の産出と養育であるか ら、成人に達した子が自立し、新たな家庭を築くに及んで、子らを育んだ家庭は解体することに なる(PhR330 §177)。ヘーゲルは核家族を念頭においている。「一般に家族と呼び習わされてい るもの、すなわち血統stirpsあるいは家系gensというものは、世代を経るごとにますます疎遠と なり、ますます非現実化していく抽象物となるしかない(PhR336 §180An.)」。家族は解体する。 解体した家族が産み出す人格が、市民社会の主体となる。

家族の解体は他の側面では家族の拡大としても現象する。家族は、自然な仕方で、また人格性の 原理にしたかって、多数の家族に分裂する。「これら多数の家族は総じて自立的で具体的な人格 として、したがって相互に外的にかかわりあう。言い換えると、家族の中には人倫的な理念がま だその概念として存在しているのであるが、家族の一体性の中に結び付けられていた諸契機は、 概念から解き放たれて自立的な実在態を獲得しなくてはならない。――それが差異Differenzの 段階である(PhR338 §181)」。家族を人格が代表している。この人格は、家族の内においては男 性が担っていたものであった。それが家族を代表して、家族財産の主体として市民社会に出てく る。

家族財産の主体である男性市民は「人格Person」である。「特殊な者である自らを目的とする具 体的な人格は、諸々の欲求の全体であり、自然必然性と恣意との混合であって、市民社会のひと つの原理である。――しかし、特殊な人格は本質的に、同等な他の特殊態と関係していて、した がって、それぞれの特殊態は他の特殊態によって媒介されることによって、同時にまた端的に、 もうひとつの原理である普遍態の形式に媒介されてのみ、世間に通用するものとなり、満足を 得る(PhR339 §182)」。人格が通用するのは、ひとつには各自の教養形成によるものであった。 男性に割り振られた役割、すなわち「外界および自分自身との闘争と労働」において、「自分自 身との自立的な合一Einigkeitを戦い取るには自分を分裂させることによるしかない(PhR319 §166)」 という、男性市民のあり方は、端的に、他の同等な特殊態との関係・媒介を必要とするのである。 しかし、もう一方の側面として、人格の通用には普遍態との媒介が、すなわち、国家という普遍 に関わってそのために働くことが必要となる。

ヘーゲルは、国家と市民社会は混同されてきたと言う。これは、社会契約説が「個別意思=人格」 の相互の契約によって成立する「特殊意思」を、「普遍意思」である国家と見なしている点に対 する批判である。ヘーゲルの言う国家とは「個人の自立態と普遍的な実体性の巨大な統一が成り 立っているような精神(PhR91 §33Zu.)」である。国法が「最高の具体性をもった自由(ebenda)」 であるためには、この統一を成り立たせる媒介がなくてはならない。それが市民社会だ、という のである。それゆえ、この媒介を統一と取り違えてはならない。これをしも国家というのなら、 それは「外的国家der äußere Staat」であり、それは「強制国家ないしは悟性国家 Not- und Verstandesstaat」でしかない(PhR340 §183)。しかし、この媒介なしには国家と個人 の統一はない。労働と財産をめぐる私的権利の相克に介入する司法・行政Polizei、また職業団 体Korporationは、市民社会の領域に属する。だとすると、国家に残された機能とは何かが問題 となる。

4 国家

「国家は人倫的理念の現実態である」。現実態であるとは、国家が「直接に(=無媒介に)習俗 において実在Existenzを有している」と同時に、「個人の自己意識と知と活動において媒介され た実在を有している(PhR398 §257)」ということである。前者は、国家が家族同様に常に/既に そこにある実体であるということを意味している。後者は、常に/既にそこにある実体が生身の 人間の知と活動において媒介されているのでなくては、実体として支えられないということであ る。常に/既にそこにある実体は、実体であることが諸個人に対して常に明らかにされ、意識さ れ続けなくてはならない。しかも、このことが諸個人自身の活動によって自己意識的に遂行され なくてはならない。近代国家はその実体性を国民の力によって再生産され続けなくては維持でき ないのである。

個人にとって国家が自分の本質であるということは、国家が自分の活動の目的であり、かつ活動 の産物でもあるということである。だからこそ、国家は個人にとっての実体的自由である(ebenda)。 しかし、これを国家の側から見ると、国家は個人の諸活動によって自己運動する自己目的である から、国家という実体的自由は、国家に属する諸個人に対する最高の権利となる。ゆえに、「個 人の最高の義務は国家の一員たること(PhR399 §258)」という事態が帰結する。

こういう結論になるのも、国家においては実体的なもの(=国家の普遍性)と特殊なもの(=市 民社会を介して国家に参入する特殊な利害を有する個人)とが融合しているからである。261節の 長文の注解では次のように論じられている。「義務とは、私にとって実体的であるもの、絶対的 にan und für sich普遍的なものに対するふるまいのことであり、権利とはこれとは反対に、 この実態的なものの定在一般のことであり、したがって実体的なものの特殊態の側面であり、私 の特殊な自由のことである。それゆえ、両者は形式的な段階ではそれぞれ異なった側面に、ない しは異なった人格に割り当てられる(PhR408 §261An.)」。一方にとっての権利は他方の義務であ る。だがこれは形式的なレベルのことでしかない。国家は人倫的なものであり、実体的なものと 特殊なものの融合である。であるから、「実体的なものに対する私の義務Verbindlichkeitは同時 に私の特殊な自由の定在である。言い換えると、国家においては私の義務と権利とは唯一の連関 の中に結合されている(PhR408 §261An.)」。国家においては、国家が国民に行使する権利は、 国民である私の国家に対する義務であり、それは同時に私の権利でもある。

形式的にも、国家においては義務と権利は同一となるのであるが、内容からするとそうはならな い。上述の形式的な同一性は、抽象法と道徳性の段階では、内容の点でも抽象的な同一性が存在 しているばかりである。誰かの権利は万人の権利であるべきだ、誰かの義務は同じく万人の義務 であるべきだ、というのである。しかし、人倫態においては、内容は必然的に展開される。した がって、形式的には同一である権利と義務が、再び内容的に異なって割り振られることになる。 父と子は権利・義務に関して同等ではないし、市民は君主や政府に対して持っている義務と同等 な内容の権利を持っているわけではない(PhR408-9 §261An.)。にもかかわらず、国家においては 権利と義務は同一なのである。内容的に異なって配分されている権利と義務を、「同一だ」と認 識することが求められているのである。権利と義務とが同一となるような国家を新たに「樹立」 することは、社会契約説、特にルソーの議論の問題点として批判されている(PhR400-1 §258An.)。 とすれば、こうした同一性を実現するにはまず、国家という実体が常に/既にここにあるという ことを前提とせざるを得ない。かくして、議論は再び振り出しに戻る。民族とその習俗の自然性 に拠らない限り、これは説明し得ない。

ヘーゲルの挙げる国家の理念は次の三つである。第一に個別国家の国内法、第二に個別国家相互 の関係としての対外法、第三が類としての普遍的理念である世界史である(PhR404-5 §259)。国 家は国内に向かっては普遍的実体である。しかし、国家はひとつだけではない。一国の国民にと って唯一絶対の国家であっても、国家は複数あるから、国家相互の関係が生じないわけにはいか ない。このとき、個々の国家は個別国家として相対することになる。ちょうど、家族が実体であ り、家族内においては普遍性を有していながら、これが市民社会に向かって解体していく際には、 家族はそれを代表する家長という一個人の人格として現象し、家族を背負った個別の人格相互が 市民社会で相対するように、対内的にそれ自体としては普遍である国家も、国際関係には個別の 主体として参入していかざるを得ない。個別主体である国家が個別利害を背負ってひしめく特殊 領域である国際関係には、利害対立を調停すべき装置は存在しない。家族と市民にとっての実体 であるような普遍(=国家)は、ここにはありえない。それゆえに、世界史の審判という観点が 導入されることになる。先のことはわからないから最善を尽くすのみ。戦争も辞さない。これが 個別国家の対外的なありかたなのだ。

国家と家族とが、対内的なあり方と対外的なあり方で性格を変えるということには注意すべきで あろう。国家も家族も、対内的には実体であり普遍的であるが、対外的には個別国家であり個別 家族である。ところが、市民社会は常に特殊である。これは市民社会が家族と国家との媒介であ って、常に個別者相互の特殊な利害関係としてあり続けるからである。だが、この関係が成り立 つのは、市民社会が一国の内部でのみ成り立ち、他国における市民社会との関係に関しては国家 が介在してくる、という前提がある場合のみである。もし、市民社会が国家の枠組みを超えて拡 大し、これを国家が統御できないという事態になれば、市民社会はそれが属する国家とその国家 を形作る家族とを媒介する中間項とはなりえなくなるはずだ。この事態は国際関係の場合とパラ レルである。国家間の国際関係の場合、国家を超える普遍的な実体を想定することができないた め、国際関係それ自体には個別国家相互を媒介する充分な機能がない。市民社会も、国家の枠を 超えると媒介機能を喪失しかねないはずである。その意味で、ヘーゲルの想定する市民社会は、 未だ一国市民社会の枠を超えていないのである。

市民社会が一国の内部での媒介装置であるのは、現代の国家では当然国家の機能の一部とされる 司法等の機能が、ヘーゲルの国家論では市民社会に割り振られていることからも想像できる。こ れらの機能が市民社会に割り振られてしまうと、国家に残っている機能はいくらもない。ヘーゲ ルの挙げる国内法の区分とは「a)普遍的なものを規定し、確定する権力――立法権力。b)特殊な 領域や個別の事件を普遍的なもののもとに包摂すること――統治権力。c)最終意思決定機関とし ての主観性――君主権力(PhR435 §273)」の三つである。権利と権力に同じ「権」の字を用いる 日本語では明確になりにくいが、この三つの権力は原文ではRechtではなくGewaltである。理念 においては実体の権利Rechtであったものが、国家の機能としては暴力Gewaltとして機能する。 立法権はここでは君主の立法権力をさす。議会は「主観的で形式的な自由という契機を、すなわ ち、多数者の意見や思想という経験的な普遍態としての公共の意識を現存させる(PhR469 §301)」 という使命を有しているに過ぎない。それは君主の立法と統治に対する助言者でしかない。とい うのも、ここで「議会」らしきものと見なされているのは、身分制議会Ständeのことであっ て、これは実際のところ身分Standの複数形に過ぎないからである。

『法哲学』のどこを開いても、国家の機能として理論上帰結する実体性と、習俗や民族によって 常に/既に現存させられている実体性とが同じものだという論証はなされていない。国家は必要 であり、それは実体的でなくてはならないが、これが人格という特殊態や、人格を持つ個々人の 身体や性とを普遍的なものへと統合しうるのは、統合が既に民族やその習俗として現にあるから だ、という断言以上のものはない。ヘーゲルには国家がこうした所謂自然性に依拠して常に/既 に現存しているということは自明だったのだろう。

5 媒介は成立しているか?

このように見てくると、ヘーゲルの議論にはいくつかの前提が存在していることがわかるだろう。

まず、《家族−市民社会−国家》という三項関係は、身体や性の所謂「自然性」を家族や国家と いう人工物と媒介しなくてはならないが、この根拠とされたのは、家族や国家が常に/既にそこ にあるという所謂「事実」であった。しかし、これには、これらの自然性から国家と家族の実体 性を導出しようとしながら、その実、国家や家族の要請からこれらの自然性を説明してみせると いう倒錯に行き着く。身体や性の、したがって男性性・女性性の自明性が揺らぐと、自然性その ものも揺らぐ。そこでヘーゲルは、『精神現象学』におけるアンティゴネー悲劇論の参照を求め る(PhR319 §166An.)。そこでは、人間の掟に従うか、神々の掟に従うかは両性の性別という二 項原理にしたがって既に決定済みであるとされたのである(PhG345ff.)。

だが、この議論には難点がある。『精神現象学』におけるアンティゴネー悲劇論は、国家という 人間の掟に属する実定法の世界と家族という神々の掟に属する自然法の世界との対立で構成され ている。この構成はギリシア悲劇から引用されたpolisとoikosという古代的二分法で構成されて いる(註2)。しかし、ヘーゲルが『法哲学』で問題にし ようとした近代社会はこうした二分法では説き得ない。それゆえにこそ、ヘーゲルは《家族−市 民社会−国家》という三項関係を持ち込んだはずである。それにもかかわらず、肝心の男性性・ 女性性を自然であると述べるくだりで『精神現象学』の当該箇所を参照するよう求めるのは、身 体と性に関する自然性の議論は古代ギリシアの段階で既に解決済みであるとヘーゲルが見なして いたからに他ならない。

だが、バトラーはそうは見ない。バトラーは、ヘーゲルはアンティゴネー悲劇論を「母権制から 父権制への過渡的段階を表すもの、だが同時に、親族原理も表すものと位置づけた (註3)」として批判する。その根拠は、何よりもまず、ヘーゲルが「アン ティゴネー」を「女性一般」へとすりかえる点にある(註4)。 アンティゴネー論は、「女性性は共同体の永遠のイロニーである(PhG352)」という結論に至る。 これは、国家にとっては犯罪ではあっても、それ自体は神々の掟に従った正当なものであったは ずのアンティゴネーの行為が、アンティゴネーが女性一般とすりかえられることで、女性性によ る共同体への犯罪的関与という理解に固定されてしまう、ということである。

だが、アンティゴネーの行為は女性一般の行為へと普遍化できる内容のものであろうか。これに 対しては、バトラーは二重の批判をしていると見てよいだろう。すなわち、第一点は、はたして アンティゴネーは女性性を代表できるのかどうかという点、第二点は、アンティゴネーがオイデ ィプスの娘であること、したがって近親姦の結果の娘であることをヘーゲルが無視しているとい う点である。第一点について言えば、妹のイスメーネーとの対比で見る限り、所謂「女性性」と 見なしうる性格を多分に持っているのはむしろ妹の方である。姉のアンティゴネーは、その言動 の仕方としてはクレオンと対等に、しかし別の掟(=人間の掟)にしたがって行為していると見 なしうるのである。すなわち、アンティゴネーは男のジェンダーを身に纏っている。ジェンダー は自然性とは無縁なのだ。よって、アンティゴネーを女性一般とすりかえることは論理的に不可 能である。第二点はさらに複雑な問題をはらんでいる。オイディプスの妻はオイディプスの母で あったから、アンティゴネーの母は彼女の祖母であり、かつ兄嫁であり、彼女の父は彼女の兄で あり、彼女の兄弟は彼女の甥でもある。親族関係は混乱している。こうした混乱はむしろ親族関 係を破壊するものと言ってよい。にもかかわらず、ヘーゲルはこの近親姦に言及しないのである。 ヘーゲルは、兄と妹の間には欲望は存在しないから、この関係は純粋であって、女性にとって人 倫的実体への最高度の予感である(PhG336)ということになるのだが、近親姦であることを前提に するなら、この議論は全くの空論となる。バトラーによれば、ヘーゲルの承認論は欲望から出発 するのであるから、欲望が存在しないなら承認はありえないはずだ(註5) ということになる。しかし、それを認めてしまうと、自然性を実体とすること で家族と国家とを説明し、両者を市民社会で媒介させることで社会契約説の克服をはかる、とい うヘーゲルの構想は崩壊してしまうだろう。

《家族−市民社会−国家》という三項関係のもうひとつの前提は、媒介項である市民社会は国家 体制のうちに包摂されるという思い込みである。ヘーゲルが国民国家についての議論しかしてい ないのは明白である。家族が引き合いに出されるのも、家族のアナロギーで国家を語ることがこ のレベルでなら可能であるからである。事実、日本の明治政府はこれを実践して見せたのである。

しかし、国民国家を超える議論はここからは出て来ようがない。また、市民社会が国家の枠組み を超えて肥大化する事態は、ヘーゲルの想定外であったと考えられる。国際関係についての『法 哲学』の議論は、個別国家同士が特殊な利害をめぐって対立するという構図であるが、こうした 構図は個別国家が国内の経済活動や司法活動を完全に包摂しているのでなくては成り立たない。 国家の統御を離れた多国籍企業であるとか、犯罪の行われた場所と時刻と方法とを特定できない ようなネット犯罪に対して、個別国家は無力である。ヘーゲルの言う「市民社会」もまた、国家 と家族によって秩序付けられる一国民国家内部における「欲望の体系」を意味するのであって、 国家の枠組を超えることはできない。市民社会という概念はヘーゲルの発明によるものであった けれども、これが国家の枠組みを超えて肥大化している現在、ヘーゲルの立てた三項関係では市 民社会を基礎付けることはもはや不可能というべきであろう。

6 結論

《家族−市民社会−国家》という三項関係は、家族論における性差のジェンダー化に大きく依拠 している。国家主義者が家族についての反動的言説を繰り返すのは、単に国家が家族のアナロギ ーで説明されることばかりが理由ではない。家族における男女の性役割genderを身体という所謂 自然、すなわち自然的性差sexを用いて説明するというレトリックが、彼らの国家論を組み立て ているからだ。ヘーゲルの理論も、身体の自然性、習俗と民族の自然性をもとに家族と国家を説 明するという図式をとる以上、これと同断である。家族の多様性を認めると、必然的にヘーゲル 的国家は崩壊する。あるいは、市民社会領域の拡大は国家と家族の変質を余儀なくする。

しかし、すでに見たように、男女の自然的な性差から両者の社会的な役割を説明するという体裁 をとるヘーゲルの議論は、堂々巡りをする。前提となっている「自然」とはMännlichkeit / Weiblichkeitとしか言い表しようのないものである。「女」を「女らしさ」で定義し、「男」を 「男らしさ」で定義するなら、それは単なる同語反復にしかならない。バトラーによって批判さ れる個々の論点は、実際のところ、ヘーゲルのテキストそれ自体がすでに自ら吐露してしまって いる。ジェンダー化というのは、性をめぐる諸現象における連続的差異を、「男・女」という二 元対立にカテゴライズする原理であるが、ここでは、自然的性差と社会的性差の峻別ということ はおよそ意味を成さない。バトラーが『ジェンダー・トラブル(註6) 』で暴露したように、自然的性差はむしろ社会的性差に関する言説によって捏造されるのだ からである。

では、ヘーゲルの議論にはなんら積極的な価値はないのであろうか? 序文における有名なせり ふ「ミネルヴァの梟(PhR28)」に反して、ヘーゲルの立論はドイツの時代状況を先取りしていた、 とは言ってよいだろう。たとえば、ヘーゲルの論じる家族は、子どもの成長と自立によって解体 する家族である。家族における個別者というのが家族の中の死者であり、位牌に名前の書き込 まれた死んだ祖先の方が生きている人間より優位に立つといった、『精神現象学』で展開され る議論からは離れている。しかも、こうした家族は当時のドイツにおいては未だ成立してはい なかったはずである。さらにまた、ヘーゲルの国家論は立憲君主制をとるが、立憲君主制自体 も、当時のヨーロッパですら新種の政体であったことは念頭に置かれるべきであろう。『法哲 学』での君主の位置付けは機関説そのものである。しかし、当時ですら、イギリスなどの国々 では、経済はすでに国家の枠組みを超えていたはずである。その意味では、国民国家レベルを 超えることのできぬヘーゲルの理論は、やはり「ミネルヴァの梟」でしかなかったのではない だろうか。

以上の議論から、グローバル・エシックスに関して何が言えるだろうか? 国家と家族を自然 性から説明するという枠組みが、媒介項の肥大化によって不可能となったとしても、国家や普 遍的な権力が消滅したわけではない。むしろ、個別の国民国家を超える《帝国》とも言うべき ものが地球規模で展開し始めているというネグリ/ハートの指摘(註7) には見るべきものがある。普遍的な価値は万人に共有されなくてはならない が、問題となるのは、共有のされ方である。社会契約説の虚構性を認めつつも暫定的にこれに 依拠するという道もとらず、自然を捏造するヘーゲルの道もとらず、しかも、国家や家族とい うカテゴリーが無効となったという前提で、普遍的な価値の共有を目指すとすれば、このカテ ゴライズの過程を監視し、吟味することが、さしあたって必要となる。価値の産出は、いずれ にせよ、現象する差異をカテゴライズすることに繋がる。差異は現象する。カテゴライズされ る以前に現象する。カテゴライズが不可避であるなら、必要なのは、現象がカテゴリーへと変 質する過程を暴くことであり、カテゴライズに対する異議申し立ての可能性を常に万人に開く ことであろう。


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2013/07/24