ブックタイトル平成25年度公開講座記録集

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平成25年度公開講座記録集

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平成25年度公開講座記録集

第1回公開講座 マリラ ?Marilla?て、本当に一度だけ頑張って勉強して主要5 教科で95、96点ぐらい取ったんです、平均点で。ところが13位でした。トップ10に入れないんです。そのぐらい厳しい学校でした。昭和46年4 月に会社に入るんですが、学園の2 年生のとき、東京の科学技術学園高等学校っていう通信制専門の学校に編入学できることになりました。当時の通信制は4 年間でしたので、入社して1 年後に高等学校を卒業しました。そして、バブルの末期に新潟市から十日町に転勤した頃に、思い切って大学の門をたたきました。授業料が安くて全国でスクーリングやってくれて、しかも法学部ということで中央大学に決めたんです。平成20年までずっといて100単位ぐらい取ったんです。ただパン屋を開業するのでいったん自主退学をしましたが、22年にまた再入学をしました。あと、残りは卒論と教養科目2 科目ぐらいで何とか出られると思っています。仕事の話に戻るんですけれども、技術屋でございまして6000ボルト以下の電圧の電気の供給の仕事をしていました。ただ平成になってからはもう全部机上職ですね。その前は、現場で電柱登りしていたんですが。平成になってからはそういう仕事もなくなりまして、もっぱら設計とか管理の仕事ばっかりしていました。平成12年に新潟支店勤務になって、完全にもう現場と離れてしまって管理部門の人間になりました。この間、平成7 年に阪神淡路大震災があって関西電力さんのほうに応援部隊を12名ほど派遣しました。私は行ったほうではないんですが、飲用水のタンクと食糧をトランクに、荷台に積めないやつはトラックの後ろ席のほうにいっぱい積んで、避難所の電気を点けに行ったんです。派遣した連中が、現地で食えない、飲めないって言うんで「なんで」って言ったら「避難している人たちが飲んでない、食ってないのに、なんで俺たちだけできるんだよ」って。水も食料もみんな避難民の方たちにあげちゃったんですね。また急きょ食糧と水を持って走った覚えがあります。それから近場では中越地震がありました。ちょうど村上市内で大学の仲間と酒を飲んでいて、5 時50分ぐらいでしたか、グラグラっときて。あわててタクシーで新潟まで2 時間かけて会社にもどりました。そこから1 週間着替えなし、睡眠なしで通しました。だからもう体中が臭くなっているのに、8 日目か9 日目に飲みに行ったんです。店から断られましたね。「じゃあ次の店行こう」ってタクシー乗ったらタクシーも「臭いですね」って。つらい思いしたんですけど、今になればいい思い出です。当時、東京電力さん、中部電力さんから復旧の応援をもらったんですが「応援要らない」って言ってるのに、「使え、使え」って本店に言われましてね。東電さんが悪いんじゃなくて、後ろに役所がいたんです。役所が「応援出したぞ」という実績作りのために「使え、使え」って言われて。一切拒否していましたけど、無理やりやって来て、帰りにおみやげ持たしてくれとかも言われて、ホントやってられないと。そのあと山形へ転勤しました。営業所の副所長で転勤したんですが140名ほど社員がいました。ほとんど仕事がない、ハンコ押すだけなんです。全く面白くないんですね。そんなこともあって、早めに手を挙げて辞めることになったんです。●転業の決意早期退職を決意する理由なんですけども、いい仕事をしたい場合は、ある程度の権限がなければいけないんです。権限がなければいい仕事はできません。そのためには昇進することが必要でした。昇進もしたかったんですけど、しょせん中卒で入って会社の中で高校を出た人間が大学卒と一緒に出世競争できるわけがないんですね。それから大体50歳過ぎると、肩をたたかれて「子会社へ行かないか」って言われるんですが、それも嫌だったんです。せっかく子会社は子会社なりに、有能なプロパーが集まっているわけですよ。プロパーの育成の芽を行く末をわれわれが摘んでしまうわけです。そのまま会社にいたとしても55歳過ぎても40代ぐらいの所長に使われたりするわけです。優秀だったらいいんですけどね。学卒というだけの方も多いです。あと何かやるならやっぱり50代から。60になってからでは、体力気力、それから記憶力、これが続かないです。当時五木寛之さんの『林住期』という本をたまたま手に取って見て、転職を決意しました。人間には四つの期があって学生期、家住期、そして林住期と遊行期があるということで。林住期っていうのは、男の50歳から75歳ぐらいまでをいって、まさに人生のクライマックスなんだと。やるんだったら電力とは全く別の業界に行きたいっていうのがありました。部下や後輩に迷惑をかけたくないのがその理由です。平成14年にはもう薪窯があって、窯でパンを焼いていましたので間違いなく素人ではなかった。ただプロ5 University of NIIGATA PREFECTURE