ブックタイトル平成25年度公開講座記録集

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平成25年度公開講座記録集

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平成25年度公開講座記録集

Column●記憶の中の笹だんごとパン早朝から、台所で父がだんごの粉をこねている。出勤前の一仕事である。台所での父の姿は、年中行事でこの時くらいしかなかったと思うが、母いわく「美味しいだんごの生地を作るには力がいるので…」。半世紀前の1960年頃の懐かしい笹だんごつくりの記憶である。季節は、端午の節句から約1 ヵ月遅れの6 月初旬、旧暦の節句で、近隣の山々が若葉に包まれ、新笹が採れる頃であった。わが家の笹だんごの中身は「こしあん」、だんごの緑色は「ヤマゴボウの葉」であった。小学校から帰ると、廊下にかけた竿いっぱいに笹だんごと「三角ちまき」がぶらさがっていた。出来立ての湯気が出ている笹だんごをおやつにほおばった後は、笹だんごの両端の笹をはさみで切りそろえるのがお手伝いであった。美味しかったが、何も添加していないのですぐ硬くなり、再度蒸し器でふかして食べたように思う。「母の笹だんご」はこの頃までで、さまざまな美味しい食品が出回り、「作っても、喜んで食べてくれないから?」と、家庭での笹だんごつくりは消えていった。ちょうどこの頃、当時住んでいた市中心街に「パン専門店」がオープンし、日曜日の昼食はパン食が定番となり、とても楽しみだった。おつかいに行くのは私の役まわりで、お店には目新しい調理パンもあったが、母に指示されたとおりに…(子ども心に、全部試食してみたかった)。5 人家族で食べ盛り3人兄弟、「食パン1 本分( 3 斤)が1 回でお腹に」と、両親は私たち兄弟の食べっぷりに驚いていた記憶が鮮明である。あの時のチョコペーストは未だ忘れられない味の一つで、今でも捜し求めている。セピア色の「思い出の食の風景」の一コマである。●笹だんごの由来「ちまき」は形やしばり方が違っても全国的に各地にみられるが、笹だんごつくりは地域が限られていた。新潟県内は、明治初年時点では7 郡に分けられていたが、笹だんごつくりは潟と田と川の恵みに囲まれた蒲原平野(蒲原郡)を中心に、古志、三島、刈羽、魚沼の各郡と、東蒲原郡からさらに阿賀野川をさかのぼった福島県会津地方の一部地域といわれている。県北の岩船郡と県南西の頚城郡(高田藩や糸魚川藩)、そして佐渡では笹だんごをつくる風習がなかったという。わが国の農業は、古来、稲作が中心であって、水に恵まれた低地はたゆまず新田開発が続けられてきた結果、大正末期において全国(北海道を除く)に11名しかいない1,000町歩地主のうち、5 名が新潟県蒲原地方に存在したという。したがって、昔から小作農家の人たち、いわゆる庶民は、いかにして手元に残る「くず米」を美味しく活用しようかという生活の知恵として、笹だんごが生まれたという説が主流である。それゆえ、日常的に食べられていた笹だんごの中身は、きんぴらやひじきなどの有り合わせの惣菜で、ハレの日(お祝いの行事)に食べる笹だんごが、良い米を使った小豆あん入りだったという。・ 参考資料:本間伸夫他編 日本の食生活全集⑮「聞き書 新潟の食事」他笹だんごとパン渡邊 令子弥彦・角田山のふもとに広がる西蒲原平野11 University of NIIGATA PREFECTURE