平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 63/80

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第4回公開講座 阿賀野川流域から発信する紹介します。四日市公害の裁判が1967年から5 年かけて72年に決着つきました。原告として裁判をした9 人の患者さんで生存している語り部野田之一さん(80歳)や工場員の澤....

第4回公開講座 阿賀野川流域から発信する紹介します。四日市公害の裁判が1967年から5 年かけて72年に決着つきました。原告として裁判をした9 人の患者さんで生存している語り部野田之一さん(80歳)や工場員の澤井余志郎さん(84歳)が高齢化し、跡を誰が継ぐのかは大きな課題です。大学の若い人たちにも託したいと6 月の環境月間に写真展を開催し、2 人が出てきて学生たちに語りました。このときに約300人、押すな押すなの形で語ってもらいました。学長は非常に複雑な気持ちでこれを認めるべきか厳しい選択だったんですが、いろんなメディアからも来ておりましたが、押すな押すなを見てくると、まあ、あいさつもせざる得ないです。四日市公害というものは、第1 コンビナートの六つの企業が生みました。そのうち三つが三菱化学系列で、中部電力、昭和シェルと石原産業。そういう物々しい大企業を相手にして、地域住民と三重県立大学公衆衛生学研究室の吉田克己先生が味方になって、四日市裁判はうまくいっているわけなんです。米本清裁判長は裁判が終わった後、すぐ亡くなりました。左陪席の方も亡くなって、右陪席が四日市公害の判決文を直接書いた後藤一男さんで生存者だったんです。何回も何回もコメントをもらいたいとラブコールしてもなかなかうんと言わなかったんですが、2004年6 月に約半日ぐらい聞かせていただいて、その中で一番印象的なことが、なんでこういう、ある意味では、裁判官には不利かもしれない、原告側勝訴判決をしたのかを聞いたときに、「自分には子どもがいたと。その子どもたちにこのまま残すわけにはいかなかった。」もう一つが非常に感銘受けたんですが「四日市公害裁判は、一審で終わらないだろうと、最高裁まで行くだろうと。そうなってくると、ほかの人だったら、まあ、ちょっと適当にやったかもしれないけど、だからこそしっかりと確実にやりたい。汚染物質が風に乗って運ばれるようなところまで勉強して判決文を書きました。」ということを言ってくれました。原田先生に四日市学が地域に根差して、その遺産を世界に発信する貴重な、重要な核になるぞというインタビューをしたのが2005年でして、その後も、年に1 回ぐらいは何回も、四日市学という講義には来ていただいていました。約6 億円で、2012 年3 月に環境・情報科学館、英語ではMEIPL(Mie Environmental & InformationalPlatform)を作りました。私は怖いイメージのものじゃなくメープルシロップ作るかわいらしい木の名前にして、深刻なことを考えるというような形にして。ここを拠点にしているんです。学生がいつでもやっていけるオープンな場、四日市公害を世間に出すプラットホーム。それから、国際協力関係は、ここに来いよというような形でやっていたら、県が作った四日市にあるICETT(公益財団法人 国際環境技術移転センター)の仕事を奪っているんじゃないかっていう話なんですが、一緒にやりましょうと話をつけました。ここが大事なのですね、どこかを傷つけることじゃない。互いにウィン=ウィンになるような三位一体のもので、困ったら来てくださいと。だけど、ここの主役は誰かっていうと、学生が主役になります。ISO学生委員会というところに、約200人おります。それと、ユネスコスクールのところで50人とか、常に、100人、200人の学生は、常にここを拠点としていろんな活動している場です。◆四日市公害1960年代に日本列島は公害列島といわれるほど、あらゆる環境問題が起きました。水俣病、今私たちがいる新潟水俣病と、富山のイタイイタイ病の三つは水にかかわるものが、有害物質を流して、それで魚とか食べた人たちが病気になっているということだったんです。四大公害のうち、唯一、四日市公害は空気が汚れて、ぜんそくになったことでした。実験室の中のではなく、実際にこれだけ大きな問題が起きてやっているのは日本だけのことでありまして、ここに、四日市の場合には、ただで私たちが吸っていると思っていた空気でさえ、汚れたら終わりなんだよっていうことを世界で初めて患者さんが出て、あまりにも苦しいので、自殺する人まで出てきているということは、大変大きな衝撃でありました。今、水蒸気がほとんどで、大気汚染物質はほとんど出してないんですけれども、一昔前は全部黒い煙だった。最悪なことは、四日市コンビナートが埋立地にあって、そのすぐ裏、目と鼻の先には人が住んでいました。そこで、もろに硫黄酸化物、窒素酸化物を吸った人たちが、ぜんそくになっている。ここで病気が起きないということはあり得ない。でも誰もそれに気が付かなかったし、認めたくはなかったというところに、四日市公害の悲劇が起きるわけな61 University of NIIGATA PREFECTURE