平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 50/80

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平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」て、おんなじように暮らしたはずなのに、とても患者さんにとっては理不尽。それに不服がある人は、行政不服申請請求しなさいっていうから、82年から2 次....

平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」て、おんなじように暮らしたはずなのに、とても患者さんにとっては理不尽。それに不服がある人は、行政不服申請請求しなさいっていうから、82年から2 次訴訟っていうことで、棄却された人たちの裁判が始まったりするんですけれども、それにもずっと関わってはきたんですが、おかしいなと思ったのは、患者さんたちの思いがなかなか酌み取ってもらえない。一方では、お医者さんとか行政の長けてる人たちが「高度の学識と豊かな経験を基にして、あなたは水俣病でないと判断します」みたいな言い方をする。患者さんはそれに対して、自分が好きだった川魚の名前を震えるカタカナの字を書いた。それは何、どういう意味なのかさえも分からない、理解してもらえない。自分の一生をとつとつと語る場面もあるわけですよね。「生まれてからずうーっと川筋に暮らして、18なって、川向かいに嫁に行けって言われて、船に乗って行きました」とかですね。映画に出てくるような人たちの人生を語るわけなんだけども、ちゃんと取り上げられるっていうことがないんですよね。で、片や熊本のほうでは、石牟礼道子さんっていう偉大な文学者がいたり、土本さんていうドキュメンタリー監督がいたり、ユージン・スミスさんが写真撮ったりと、そういうふうな人が大勢いるのに、新潟にはいない。ただ運動体としては、四大公害裁判の先駆的な闘いであったっていう評価はされてるけど、なんで新潟はいないんだろうっていうふうなことを考えたわけです。このまま裁判とか、随分長くかかるんであろうに、どうしたらいいんだろうかなという思いを持ったときに、佐藤さんと出会いました。先ほど予告では、なかなか伝えきれませんでしたけど、とてもとても魅力的な暮らしをしてたわけですよ。私は患者さんのためと思って付き合ってたのが、いつの間にかその暮らしぶりの魅力っていうか、どんどん、引きずられていくわけですよね。それを自慢したい。新潟だって、こんな人たちがいるんだよ。こんないい所なんだよって酒の勢いで語るわけなんですけども、佐藤さんは次は自分が監督だって思われたのかもしれませんが、とにかく私にとっては、飛んで火に入る夏の虫で、もう、うれしくて、うれしくてですね、毎晩飲んでました。佐藤さんもよく通ってくれて、でも、まだ大工でいえば弟子なわけですよね。「旗野さん、これから東京で修行してくるわ」って言って何年か、監督の名前忘れましたけども、修行してこられました。89年に、高齢の患者さんが「老夫婦2 人暮らしでは、とてもこの雪深い所に暮らせないから、安田の孫と一緒に暮らすことになったんで、よかったら映画作りで、この家使ってもいいよ」って言ってくれたんですね。なんか、いい具合に動き始める予感がしました。佐藤さんは、映画は3 人いればできる。監督とカメラマンと録音。で、カメラマン、誰にするっていったときに、これも偶然なんですけども、小林茂さんはスチールでは本なんかも出してましたけども、ムービーは1 回も撮ってなかったんですね。だけども、びわこ学園、重度の障害者の人たちが琵琶湖を一周する、写真と詩を一緒にした本が『ぱんぱかぱん』っていうタイトルなんですけど、私も見てたし、佐藤監督も見てた。それが、写真なんだけどムービーのような写真なんです。すごく印象深かった。2 人ともほとんど同時に名前が出たんですね。スタッフの中で唯一結婚して、子どもさんもいて、この先どうしようかなって思ってもおられたらしいですね。京都で暮らしていました。大熊 出身は長岡です。旗野 で、そういうことがきっかけで、実家っていうか地元に戻ることになるわけね。遠藤 皆さんが平均年齢、何歳のときですか?旗野 20代で、コバさんと私だけが30代だったと思いますね。最終的には7 人になるんですけども。小林さんはカメラマン。録音の鈴木彰二さんは、なんと鍼灸師なんですよね。遠藤 えー。旗野 鈴木さんも、ほんとは水俣の患者さんのためにみたいなことで新潟に戻ってきた人。結局、はりは一度もやれることなく、録音を担当してくれて。スチールの村井さんも、たまたま全国行脚かなんかしてた、あのころ、そういう人が多かったらしいですけども、立ち寄った新潟で、面白そうなことをやってるってことで関わったのがきっかけ。遠藤 へええ。旗野 石田さんも、三条の鋸屋さんの後継ぎ社長。撮影助手の山崎さんは、三幸製菓のひび割れせんべいは僕が開発しましたって言ってましたけど、東北大学のタニシの研究をしてた彼が、なぜか関わりました。熊倉さんは、当時18歳だったんですが、いかだ作りかなんかやってるうちに、たまたま見学に来て、それから転がり込んで、7 人が3 年間、ここでUniversity of NIIGATA PREFECTURE 48