平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 40/80

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平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」川の水に足を浸すようにして生活されていたということです。当時の子どもたちも川遊びをしていて、小学1 年生くらいになると自分で泳ぎを覚えていた。こ....

平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」川の水に足を浸すようにして生活されていたということです。当時の子どもたちも川遊びをしていて、小学1 年生くらいになると自分で泳ぎを覚えていた。こうやって自然の中で育ち、自然の優しさも自然の厳しさも教えられたそうです。川で獲って売れる魚は、海から産卵のため川を上るサケ、マス、ヤツメウナギ、イトヨ、ボラ、モクズガニで、売れない魚は、在来魚のイゴイ、ウグイ、コイなどで、一般の家庭の食卓で食べられるのはこの在来魚だった。近さんの家は子どもが8 人で、親御さんからすれば「子どもたちに動物性タンパクをどう与えるかというのが頭にあったんだろう」ということです。時間がだいぶなくなってきたので、近さんはここで切り上げさせていただきまして、4 番目の渡辺参治さんと5 番目の方にいきたいと思います。9 年前、2003年に女子短大時代の教え子が結婚すると言って、結婚式に呼ばれました。お相手は新潟で映画関係の仕事をしている青年で、映画「阿賀に生きる」の製作のボランティアをしていたそうです。式の中盤に差し掛かり、何か怪しげな2 人の男性が登場しました。1 人は中年男性で、ニコニコというかニタニタ笑っているおじさんで、もう1 人は頭はツルツルで背の小さなおじいさんで、歌を歌うと言い出します。「ちょっと準備をします」というから、何をするかと思ったら、「養命酒」の空箱をガムテープで机に貼り付けて、太鼓のバチを取り出して、そのバチで「養命酒」の空箱をパカパカ叩きながら、えらく大きな、とても通る声で、「ドンドンパンパンドンパンパン~」と「ドンパン節」を歌い始めました。何なんだ?と思って聞いていましたが、あとになって知ったことですが、このツルツル坊主の小さなおじいさんが、水俣病未認定患者で「安田の唄の参ちゃん」こと渡辺参治さん、もう1人の男性は、「安田患者の会」の旗野秀人さんだということでした。渡辺さんは1916年、大正生まれで、小さいころから歌が好きで盆踊りなどでよく歌っていたそうです。小学校を出て、瓦屋に弟子入りして瓦職人となります。昭和17年、阿賀野川の近くの昭和電工の社宅の屋根に屋根ふきの仕事に行って、阿賀野川から魚をたくさん取ってきて、毎日食べていた。参治さんは、第1 次訴訟には参加せず、第2 次訴訟に参加しますけれど、瓦職人をしていたので、川と直接の関係がない生活をしていた上に、歩いたり走ったりできるし歌も歌えるので、一見健康そうに見えたので、ニセ患者と言われることも多かったそうです。それでも、大好きな歌を歌い続けているそうです。ご両親が歌う歌を聞いて覚えたということです。92年の第2 次訴訟の和解でも参治さんは未認定患者のままで、その後、旗野さんと2 人で新潟水俣病の語り部として全国を回って、大好きな歌を披露して、語って回っているということです。5 番目に第3 次訴訟原告の女性。今年(2012 年)の5 月、新潟地裁で新潟水俣病の第3 次訴訟の公判が行われたので、傍聴に行きました。第3 次訴訟は2007年4 月に提訴されたもので、第1 、第2 次訴訟の患者さんとは別の団体による訴訟です。このときの口頭弁論で、原告の50代の女性が意見陳述をしました。新潟水俣病の患者さんといったら70歳以上の高齢の方が多かったので、50代という年齢に驚きましたが、この女性は陳述で、子どものころから川魚を食べていたこと、子どものころ経験した水俣病の検査、子どものころからの目まいと耳鳴り、結婚して妊娠したときの不安などを話されました。小学校のとき、水俣病にかかっていることがまわりに知られ、つらい思いをしたそうです。彼女は陳述しながら声を上げて泣き出しました。2010年から始まった「水俣病特別措置法」による救済申請が今年の7 月末で締め切られましたが、この50代の大人の女性が声を上げて泣く姿を見て、私は自分の姉と同じくらいの年の若い患者さんがいることに驚いたと同時に、患者さんが水俣病であることを他人に知られることの恐怖は、水俣病でない者の想像をはるかに超えるものがあるのだなと思いました。そして7 月末に救済申請が締め切られても、人に知られるのを恐れて申請できなかった人たちはかなりの数に上るのではないかと思います。以上、患者さんについてでした。患者さんを支える人たちまず金田利子さん。静岡大学名誉教授の方で、私はこの方にお会いしたことも、お話ししたこともないんですけど、新潟水俣病関係の書物『阿賀よ伝えて』に文章を寄せられていて、どうしてもこの人には触れないわけにはいかないと思います。といいますのも、金田さんは新潟県立大学の前身である県立新潟女子短大の幼児教育科に1966?69年までの4 年University of NIIGATA PREFECTURE 38