平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 39/80

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第2回公開講座 新潟で水俣学を継承するはあまりの切なさで、思わず阿賀野川の端に立って、「生きるために魚を食べてきたのに、なんでこんな目に遭わなければならないんだ。」と悔しさと情けなさで、何度も川に飛び....

第2回公開講座 新潟で水俣学を継承するはあまりの切なさで、思わず阿賀野川の端に立って、「生きるために魚を食べてきたのに、なんでこんな目に遭わなければならないんだ。」と悔しさと情けなさで、何度も川に飛び込もうかと思ったそうですけども、子どもの顔を見るととてもそういうことはできなかったそうです。小武さんは認定申請をしますが、認められません。悩んだ末、1982年2 次訴訟に参加します。初めは他人の目が気になって運動には消極的で、誰かが水俣病の苦しみを理解してくれて、誰かがやってくれると思っていたそうですが、1988年盛岡で開かれた全国母親大会に参加して、自分の思いを発表したことが契機になり、「ほっかむりして生きてはいけない」と考えるようになったそうです。小武さんは若いころから歌や踊りとか芸事が好きで、津島屋に嫁いでからも、民謡や踊りを習ったり、盆踊り大会などに出ていたそうです。体のリハビリになると思ってやっていたが、最近年のせいか覚えも悪くなり、また手先がしびれて感覚がなくなり、踊りの発表会の大事なときに扇子を落とすことが続き、自信がなくなってきたそうです。今でも自分がテレビに映ったりすると、「あんただろう、こないだテレビに出たのは?」とか「あなたが出ると金になるだろう」とか言われるそうです。一方で、「あなたたちが一生懸命運動してくれるおかげで、私たちの医療費もちゃんと出るし、運動してくれて、私たちも恩恵受けているよ。ありがとう」と言ってくれる人もいるそうです。現在、「環境と人間のふれあい館」の語り部をされてますが、初めはあまり乗り気ではなかったが、館長さんに「あんたたちが資料館を建てろ、建てろと言ったのに、何寝ぼけてんだね」と言われて、「なるほどそうだ」と思って、語り部をやるようになったそうです。今、語り部として一生懸命やれるのは、子どもたちの深い理解、愛情のおかげだとおっしゃっています。この間、語り部に行ったら、子どもたちが小武さんの顔写真を入れた新聞を作ってくれて、お礼の手紙、励ましの手紙が来るのが心の支えだとのこと。握手してくれと言ってくれる子たちもいて、そういうことがあると、「ここに来られる限り来なくちゃ」と思うそうです。また保健手帳(医療手帳)が、新潟でもかなり多くの方が取得するようになりましたが、今まで名乗り出る勇気がなかった人も名乗り出るようになったということは、自分たちの運動が実を結んだのではないか、とのことです。ただ、小武さんには娘さんが2 人いますが、そのうちの1 人が仕事中に手が震える、頭がボーっとするなどの症状を訴えて、自分と同じようなので、水俣病ではないかなとちょっと心配しているそうです。あるとき新聞に載っていたそうですが、新潟市長宛てに、「ニセ患者のために大事な市民の税金を使うな」という投書があったとのこと。小武さんはそれを読んで「本当に情けなく思った。これが申請差別ではないか。誰が何ともない体で、13 年も裁判を打つバカがいるか」と思ったそうです。泉田県知事も言っていましたが、「裁判にかかる費用のほうが、貰えるお金よりも多くかかる」とのことです。小武さんは、講演を聞かれている方々に水俣病を理解して、説明できるようになっていただいて、応援していただくと、薬を飲むよりも勇気を与えてくれる、勇気が湧いてくる、とおっしゃっていました。近ちか四よ喜き男おさん。近さんの内容は、2011 年11 月15日、新潟県立大学に講演に来ていただいた時の内容です。近さんは1930(昭和5 )年生まれで、新潟市一ひ日と市いちのお生まれ。すぐ隣ですね。8 人兄弟の6 番目で、小学校を卒業して、一時期「新潟鉄工所」に勤めますが、川船に乗る仕事をされたそうです。1960年にお父様が新潟水俣病を発病された。第1 次訴訟の原告団団長だった近喜き代よ一いちさんは兄弟の一番上のお兄さんだそうです。74年に認定申請をしますが、翌年棄却されます。現在「新潟水俣病被害者の会」の副会長、「ふれあい館」の語り部をされています。語り部になったのは、親子9 人のうち4 人が亡くなり、残った5人も「生涯治らない」と言われながら苦しんで生活をしているので、「こんな経験をしながら、後世の人たちに、子どもや孫に伝えなくていいのか、という責務のようなものを感じた」が、「なかなか語り部になるチャンスが遠かった」。第2 次訴訟では1995年に和解が成立して、その裁判の経過を見て、「年老いた人たちが原告になって、痛みをこらえて、腰を伸ばして闘っているのに、ずっと苦しみを訴えているのに、13 年間も法廷に縛り付けられていたんだ」と思った。「後世の人のために、こんなあってはならない病気をみんなで乗り越えるために、語り継ごうと決心した」とのことです。近さんのふるさと一日市も川沿いの村で、みんな37 University of NIIGATA PREFECTURE