平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 38/80

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平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」水俣病関係でテレビや新聞に出ると、同じ部落の人が「ええ顔しよって、新聞出てテレビに出て」「ほら、野郎、かっこつけやがって」とか言われるそうです。....

平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」水俣病関係でテレビや新聞に出ると、同じ部落の人が「ええ顔しよって、新聞出てテレビに出て」「ほら、野郎、かっこつけやがって」とか言われるそうです。別に顔を売るためじゃなくて、みんなのためにやっているのだけれども、なかなか理解してもらえない。旗野さんは「そういうことを言っている人もみんな被害者で、みんな基本的には被害者なんだけど、立場が違うもんだから被害者同士がぶつかってしまう」と述べています。裁判が和解して「未認定」から「未」の字を取った。裁判闘争はつらく長い闘いだったけれども、「つまり我々は水俣病患者なんだ、これからは余生を楽しもう」ということで、楽しい運動をしようということになり、患者さんで初めて温泉旅行に行き、会津のコロリ三観音巡り、毎年の花見の会などを行っているそうです。その後権瓶さんは「安田患者の会」の副会長になり、亡くなった人の供養のためのお地蔵さんを作る石を探しに、旗野さんと一緒に水俣に行ってきたそうです。そして「今では二度と悲惨な公害を繰り返さないように語り部をやっています」ということでした。権瓶さんは昨年2011 年2 月、81歳でお亡くなりになったそうです。次のお2 人はお元気で、現役の語り部として活動されていますので、直接ご本人の話を聞かれるのが一番良いかと思いますので、内容を端は しょ折りながらお話しします。小武節子さん。この内容は2008年の講演によります。1936年(昭和11 年)、現在の新潟市江口の御出身。堤防のそばに住んでいたので、小さいころから川で遊び、魚を捕まえたりしていた。お父様は釣り好きだったが、9 歳のときに戦争で亡くなった。お母様は、小武さんが中学校を卒業するのを待たれていて、小武さんも早く中学校を出てお母さんを助けたいと思っていた。小さいころからお金を工面するお母さんの姿を見ていたために、家計を助けるために川の護岸工事や農作業などに従事されていた。こういう苦労もしたので「人より我慢強い人間になったかもしれない」ということです。1957(昭和32 )年に22 歳で津島屋に嫁ぎます。ご主人のお母様の実家は網元で、ご主人の身内は全員第1 次訴訟の認定患者でした。小武さんも同じ魚を食べていたそうです。ご主人のいとこからも「おめえらも俺のくれた魚を食べたから、同じ症状があるはずだ」と言われたそうです。68年ごろから頭が痛くなり、得意であった田植えの作業が思うようにできなくなり、体が動かなくなります。しかしご主人は認定申請をするのに反対します。水俣病に認定されたら、村ではいろんな噂が飛んだそうです。「うつる」とか、「水俣御殿がまた建った」「あそこの家は毎日ごちそうを食べている。毎日、寿司屋が寿司を運んでる」とか言われたそうです。なので、いくら症状を持っていても、具合が悪くて医者に行きたくても、表立って行かれない。いわゆる当時の「水俣隠し」と呼ばれるものです。同じ症状、同じ魚を食べても、医者に行くにも隠れて、なかなか言い出せなかった。そのような差別偏見がすごかった。ご主人は小脳をやられていたので、運動神経がダメになった。さらに2006年には難病になった。小武さん自身は、自分の体を労わりながらご主人の介護しているので、夜もろくに眠れない。寒くなると膝がすごく痛くなり、夜になると足を冷やすとよくないので、ズボン3 枚、下にももひき、靴下も3 枚履いてコタツに入る。ご主人はトイレに行くのにも歩行器につかまらなければならない。ここ何十年も、夜何時に寝ても1 時半か2 時には必ず目が覚め、そうすると今度は眠れなくなり、あんまり薬を飲みたくないので、我慢してラジオを聞いて、3 時か4 時くらいにまで聞いて一夜を過ごす、そういう日が続くそうです。ご主人はいくら説得しても、頑として「水俣病にはなりたくない、水俣病を名乗りたくない。会社もクビになってしまう」と言っていた。ある時、ご主人が何かの集まりに出ていたとき、水俣病に認定されていたいとこが一緒にお茶を飲みに来たところ、周りの人が「水俣が来たがな、ミナが来た、ミナが」とバカにしていたのを聞いて、「あんなこと絶対に言われたくない」と言っていたそうです。しかし、そのご主人も会社を休みがちになり、以前は飲まなかったお酒を毎晩飲むようになり、依存症のようになって、転んでケガをしたり、階段から落ちたりすることも何十回とあり、こちらの話相手にもならないような月日が流れたそうです。離婚も考えたそうですが、子どもが3 人いるので、お父さんのいない子どもにしたくないと思って、自分さえ我慢すれば、と考えるようにしてきた。ただ、時にUniversity of NIIGATA PREFECTURE 36