平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 37/80

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第2回公開講座 新潟で水俣学を継承するうデマが広がっていたそうです。権瓶さんは4 人の子どもがいたので、ずいぶん悩んだそうです。翌74年、水俣病認定申請の書類を町の役場に出して、認定申請をし、県より通知....

第2回公開講座 新潟で水俣学を継承するうデマが広がっていたそうです。権瓶さんは4 人の子どもがいたので、ずいぶん悩んだそうです。翌74年、水俣病認定申請の書類を町の役場に出して、認定申請をし、県より通知が来て、新潟大学病院に検査に行きます。大学病院に着くと、水俣病患者は退院口から入れということでした。また受付で手続きをすると、カルテは一番下にされて、他の患者さんより後回しにされたそうです。大学病院では目の検査のとき、「見えるのに見えないふりをしているのか」、耳の検査のときも「聞こえても聞こえないふりをしているのか」と、まるで悪いことをやったように怒られたそうです。体が悪いから検査に来たのに、水俣病というだけでまるで悪人扱いだったそうで、「そんなに水俣病になりたいか」「お金が欲しいのか」とか言われ、まるで犯人扱いだったそうです。大学の検査が済むと、県より認定棄却の通知が来たそうです。認定されなかったわけですね。権瓶さんの奥様のアキさんは41 歳で発病し、権瓶さんとほとんど同じ症状でしたが、一度も検査を受けなかったそうです。1977年の暮れに認定申請を勧められたそうですが、その次の朝、亡くなります。自死されたということで、42 歳だったそうです。権瓶さんは、若い頃は青年団の活動をされ、隣町の弁論大会まで参加しに行くなど、まじめな方で、活発に活動されていたそうです。奥様が亡くなったあと、子ども4 人を抱えて、また自分の病気も抱えて、再婚しないで、自分1 人で頑張ってきたということです。また1970年代の後半には、安田町で潜在患者の発掘調査などもされています。水俣病の症状があると言われた人が認定の検査に行くと、審査では、1 から4 までのランクがあり、1 から3 までのランクの人は認定されたそうですが、権瓶さんたちは4 ランクで、ダメだとされた。未認定の人はほとんどが4 ランクだそうですけども、ほんのちょっとの違いだったそうです。この認定審査で棄却される人が出ることについて、旗野さんは、「そもそも中毒なんだから、100人いれば100様の症状がある。人によっては検査のとき緊張して普段できないことができたりすることがある。それで健康な人と見なされたり、ニセ患者と見られるかもしれない。水俣病と認定された人と同じように魚を食べて、同じような症状があるんだから、たとえ見たところ普通の人にしか見えなくても、患者であることは間違いない。感覚障害とかしびれは目に見えない」とおっしゃっています。先ほどの発表にもありましたが、熊本水俣病は劇症型の患者さんが多いので、見てはっきりと分かりますが、新潟水俣病では、劇症型の方は初期に亡くなられたあとは、一見すると健康な人とあまり見分けがつかない方が多数だということです。水俣病であることを認めて欲しいと、認定を棄却された人たちが集まり、1982年に昭和電工と国を相手に、第2 次訴訟の裁判を起こします。第1 陣から第8 陣まで、234 名が参加します。権瓶さんは子どももいるということで、参加するかどうか悩んだそうですが、このままでは納得できないということで、裁判に参加します。裁判と並行して権瓶さんたちは全国の人々に理解と支援をお願いしようと、いろいろな行動を行います。東京に出掛け、昭和電工との交渉や会社前での座り込み、国会議員に早期解決のお願いに回ったりします。また県内の全ての自治体にも協力要請で回ったりします。裁判が始まってから13 年半後の1995年12 月、内容的には十分とは言えませんが、一応の決着を見ることになります。この認定申請について旗野さんは、「水俣病を認めるシステムは、認定審査会というところで、新潟県知事や新潟市長が判子を押すんですけども、県知事や市長は“自分は専門家ではない”と言って審査会に任せている。審査会が水俣病と認めなければ、水俣病でなくなる。しかしそれは行政側の都合であり、水俣病の人と同じものを食べて、同じような症状がある権瓶さんはどうしても被害者であり患者なんです」とのこと。裁判の上では和解が成立して、決着の内容としては決して十分とは言えないけれども、1995年の12 月から翌1996年の2 月に一応のけりがつき、国、昭和電工との裁判を終えます。旗野さんによると、「十数年の裁判の間に、一緒に闘った仲間が高齢でどんどん死んでいく。もっと頑張って運動しろとか、とても言えなかった。苦渋の選択だった」とのことです。裁判が終わって和解したあと、同じ部落の中で、裁判をやらなかった同じ症状を持つ35名の人も救済された。そういう人の中には、「お前のおかげじゃねえ。俺は国から、県から一時金や医療手帳をもらったんだ」という人もいるそうです。さらに新潟35 University of NIIGATA PREFECTURE