平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 36/80

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平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」していました。ちょうどその頃、母校の大学の中国研究サークルの部室に顔を出すと、後輩となる部員に水俣高校出身の女子学生がいました。「(水俣は)今は....

平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」していました。ちょうどその頃、母校の大学の中国研究サークルの部室に顔を出すと、後輩となる部員に水俣高校出身の女子学生がいました。「(水俣は)今はなんともないんでしょう?」と聞くと、彼女は一瞬真顔になって、「はい」と答えたのを覚えています。1997年4 月に県立新潟女子短期大学に赴任しました。ある日、図書館で「新潟日報」を読んでいたら、安田町の中学生が新潟水俣病について調査して、学校の文化祭で発表展示を行ったという記事を読みました。新潟に来てから水俣病のことは全く意識していませんでしたが、中学生のときに地理の授業で習った四大公害の一つがここ新潟で、阿賀野川だったのだと初めて意識しました。そしてそれが先ほど述べたような、これまで考えてきたことと結びついて、「新潟水俣病共闘会議」主催の現地調査に参加しようと思い、1999年、2000年、2009年、2010年の現地調査に参加してみました。さらに、県内で開かれる水俣病関係の催し物には極力出るようにして、できるだけ患者さんに触れてお話を伺うようにするようにしています。短大時代に、教え子の学生、ゼミ生なんですけども、「おばあちゃんが水俣病の患者です」という学生が2 人いました。その1 人の学生は、「おばあちゃんがインタビューを受けて、本になった」と言っていました。その「おばあちゃん」は名前を公表されていますが、新潟水俣病第1 次訴訟のときの原告団をやられていた方の御家族ということです。新潟水俣病の患者さんのお話これまで講演会、現地調査等でお話をうかがった患者さんより、5 名の方を取り上げて、お話の内容と印象に残ったことなどをお話しします。実名を公表されている方は実名を挙げさせていただきますが、それ以外の方は匿名とさせていただきます。お1 人目は権ごん瓶ぺい晴雄さん。権瓶さんは「新潟県立環境と人間のふれ合い館」の語り部をされており、今日のお話は2008年2 月16日の講演の内容です。この講演ではコーディネーターとして「安田患者の会」事務局の旗野秀人さんが対談されておりました。権瓶さんは、1930(昭和5 )年のお生まれ。現在の阿賀野市、旧安田町の小松という所の御出身です。実家のすぐ前が阿賀野川で、子どものころから水遊びをしていた。お父様が国鉄の職員をされていたそうで、退職して漁業権を取得して、船を買って魚取りをしていた。権瓶さんにとって川といえば川魚で、アユ、サケとか釣れるものを食べ、小さいころから川魚に馴染んでいた。小松には海の魚は登って来なかったそうで、海の魚は阿賀野川河口の松浜の女の人が自転車で行商していたそうです。自分たちは魚というと川魚しか食べられなかった。ハユ、イゴイ、アユ、サケなどをハエナワ、トウカケで取っていた。権瓶さんは終戦の年(1945年)、尋常小学校を卒業し、そのあと山と川に関係のある仕事をしていた。畑仕事や養蚕を手伝ったり、山から護岸用の粗朶(そだ)を担いで川まで運んだり、冬には草鞋を作ったり、仕事があれば護岸工事をしていた。1955年にダムができ、下流で魚釣りができなくなったとのことです。1959(昭和34 )年、阿賀野川の水面が白く濁り、多くの魚が腹を見せて浮き上がるということがあった。これは昭和電工のちょっと上の山のカーバイドを積んでいた所が、大雨が降って崩れて、阿賀野川に流れ込んだのが原因だということです。権瓶さんたちもみんなで魚を取り食べたそうです。1964年ごろ、権瓶さんの家では、川魚を食べさせた飼い猫が狂ったように走って死にます。権瓶さん自身は、1962年頃から物を落としたり、めまい、手足のしびれ、物が二重に見える、耳鳴りがする、夏でも足が暖まらなくなる、などがしばしば起こるようになります。しかしそれが水俣病とは分からなかったそうです。新潟水俣病は1965(昭和40)年に公式発表されますが、それは横越の横おう雲うん橋から下流の話だと思っていて、患者は上流にはいないと思っていた。それが上流からも患者が出ることになります。権瓶さんの症状が一番悪くなるのが1973年で、頭痛、物忘れ、蝉の声のような耳鳴りがして、匂いも臭覚もほとんどなくなります。この頃、旗野秀人さんと知り合い、検査を受けたほうがよいということになり、沼垂診療所の齋藤恒先生に診ていただいたところ、水俣病の症状があると言われます。当時は、兄弟でも「水俣病の検査に行ってきた」という話はできなかったそうです。検査に行ったことは家族には話をしたそうですが、その当時は「水俣病はうつるから嫁や婿はもらうな、くれるな」などといUniversity of NIIGATA PREFECTURE 34