平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 35/80

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第2回公開講座 新潟で水俣学を継承するに行政が認定した地区を「同和地区」と言います)が多いですが、私のいた熊本の小学校中学校でも、いわゆる「同和教育」が行われていました。「封建時代」をフウケンではなく....

第2回公開講座 新潟で水俣学を継承するに行政が認定した地区を「同和地区」と言います)が多いですが、私のいた熊本の小学校中学校でも、いわゆる「同和教育」が行われていました。「封建時代」をフウケンではなくてホウケンと読むんだということを知ったぐらいでしたけれども。当時は全く意識していなかったのですが、今にして考えると、小中学時代に人権問題のようなものに触れることが多い環境であったのかもしれません。これはあまり思い出したくない思い出なんですが、中学生の頃、友達の1 人が「あん人たち、こがんだろ?(あの人たち、こうだろう?)」と言って、ふざけて水俣病の劇症型(激しく痙攣する)の患者さんの真似をしてみせました。私は内心「それはいけないことだ」と思いましたが、その場に合わせて笑ってしまいました。あるいは、いけないと言われていることを平気でやるところを笑ったのかもしれませんが。そうしたら、それを見ていた別の友人が、「そういうことをしてはいけないよ」とはっきりと言いました。私も内心「いけないことだ」と思っていたのに、笑ってしまった。この頃の水俣病の記憶を辿ると、いつもこのことが思い出されて、今も心に引っかかっています。中学3 年になると埼玉に引っ越し、高校時代は埼玉で過ごしました。その後1 年浪人して大学は再び九州に戻りまして、公立の北九州大学(現在の北九州市立大学)に入学して中国語を専攻しました。大学の授業やサークルで中国語や中国の近現代史、あるいは社会事情を学んで、同時代の中国社会、同時代の人々の生活とか生き方を知りたいと思っていました。私は数学が苦手で社会科学はダメでしたので、文学作品を通して見てゆきたいと考えました。そして中国の近現代における欧米や日本との関係、国内の政治状況の厳しさ、社会状況の厳しさなどを知り、その中でのさまざまな社会問題、人々の生活ぶりや生き様を見ていきたいと考え、3 年次のゼミ選択、および大学院進学では、中国近現代文学をやることにしました。北九州市内には、西日本最大の同和地区があります。学生自治会も「差別について考えよう」を政策の一つに掲げて、行事をいろいろと企画していました。また教員免許取得を希望すると、教職関係の授業では「同和問題論」「同和教育論」が必修でした。ちなみにその講義を担当されたのは林はやし力ちから先生という方だったんですけども、今から10年前ぐらいですが、新潟に講演に来られたこともあります。さらに北九州という土地柄、近所にも在日韓国、朝鮮の人もいました。またクラスには愛知県出身の在日3 世の学生がいました。学生時代もっとも親しかった友人の1 人です。彼が自治会にかかわっていたこともあり、よく一緒に酒を飲んで、いろんな問題について話をしたりしていました。また学内には成田空港反対闘争をやっている学生運動の活動家たちがいて、彼らの勧誘を受けることもありました。「学生は、支配する側に立ってはいけない。学生は、抑圧される側に立たなければならない」とか言われました。まあ、複雑な構造の社会では、どれが支配する側で、どれが抑圧される側なのか、簡単には言えないし、そのように言っていた活動家たちがどれだけ抑圧される側に立てていたかどうかは分かりませんが、そのような言葉が印象に残っています。思えば、国家公務員の家庭で、特に不自由とか苦労を経験せず20年余りを過ごしてきて、生きてゆく上で、何か本気になるとか、必死になる、一生懸命になることに欠けたところがあった自分ですが、それでサークルの運営や人間関係がうまくいかなくなることもありました。自分自身が一生懸命生きていないと、必死に生きている人の気持ち、あるいはそれが不当に妨げられたときの怒りが分かりにくくなるのかもしれません。学生時代には、自分に欠けていたものに気づかされることもありました。大学生の当時は意識していなかったけれど、今にして思えば、小中学校の頃と同様に、人権問題と言えるかどうか分かりませんが、いろいろ考えさせる機会があったのかもしれません。大学時代のこのような経験から、ちょっと古い表現(30年ほど前の表現)を使うならば、「被抑圧民衆の解放を求める運動に連帯する」とでも言いましょうか、今風な言い方をするならば、「社会的に弱い立場の人たちが一生懸命になって生きている、その姿を知って、それに触れて、そこからいろいろなことを学んでいけたら」というような考えを持つようになり、できるだけいろいろな場に参加して、いろいろな人に触れて、共有するものを持てたらよいな、と考えておりました。その後、平成の時代になり、1990?93年まで、3年間中国に留学し、1993年の秋から97年の春までの3 年半、福岡、山口の大学で中国語の非常勤講師を33 University of NIIGATA PREFECTURE