平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 28/80

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平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」かな、というふうに考えました。私の発表はここまでですが、残りの2 人がさらに詳しく水俣や御所浦を訪問したことについて、そして、水俣病について考えて....

平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」かな、というふうに考えました。私の発表はここまでですが、残りの2 人がさらに詳しく水俣や御所浦を訪問したことについて、そして、水俣病について考えていきますので、よろしくお願いします。ありがとうございました。司会 ありがとうございました。では、続きまして地域環境コース3 年の渡邉千里さんの発表に移りたいと思います。今ほど丸山さんからは「接続」というキーワードを用いて発表していただきましたが、渡邉さんからは「記憶」というキーワードを用いて発表していただきます。水俣市周辺を歩く─記憶の風化をどのように防ぐのか渡邉 私はこの9 月に行われた4 日間の水俣病現地調査に参加させてもらいました。私がこの水俣病に興味を持ち始めたきっかけは、小中学校の総合教育の時間に水俣病と新潟水俣病についてのお話を聞いたことです。そこから、環境と人の健康の関係に興味を持ち、大学で詳しく学びたいと思い現在の地域環境コースに入りました。そして、2 年の秋に小谷先生と映画館で佐藤真監督の映画『阿賀に生きる』を初めて観て、感銘を受けました。DVDで何度もこの映画を観ていくうちに、自分がこの大学に来るきっかけになったとも言える水俣病と新潟水俣病についてもっと知る必要があると感じ、この調査に参加させてもらいました。私の発表のテーマは「水俣市周辺を歩く─記憶の風化をどのように防ぐのか」です。どんな大きな問題にも関心の強弱があります。そのなかで、人々の関心をつなぎ続けるというのはとても難しいことだと思います。水俣市では水俣病の記憶を次の世代に継承するため、記憶の風化を防ぐためにどのような試みを行っているのか。実際に私たちが訪れた水俣市の写真とともに紹介したいと思います。まず、私たちは水俣駅に到着しました。駅を出てすぐに見えてきたのが、「チッソ」(ここでは社名をこの呼称で統一する)水俣工場の正門です。水俣病の原因となったメチル水銀を含む排水を流し続けたチッソの工場は今でも稼働しています。私は水俣市に来るまでこのことを知らなかったのですが、この工場は現在テレビなどの液晶部門で活躍しており、世界の3 分の1 のシェアを誇っています。この工場は1908年からこの場所にあったものですが、その約20年後の1927年に水俣駅が工場の真向かいにつくられたそうです。当時各地から汽車に乗って工場に働きにくる人々がそれだけ多かったこと、水俣市が工場の城下町であったことが、駅と工場の位置関係からわかりました。次に水俣市の地図で汚染の経路を説明します。先ほど説明した水俣駅の真正面にあるのが、チッソの水俣工場です。そのすぐ隣にあるのが、水俣病の原因物質であるメチル水銀を含む工場排水を1932年から1968年まで流し続けた百間排水口です。ここから排水が流されて、それにより汚染された魚は潮の流れにのって月浦、湯堂、茂道という3 つの地域にたどりつきました。魚が汚染されていることを知らずに魚を獲って暮らしていたこの地域の人々は、劇症型の水俣病になりました。汚染された水俣湾は、現在では埋め立てられています。ここにあるのが八幡プールです。水俣病が初めて公式確認された1956年の2 年後の1958年、百間港付近の汚染を止めるための方策として、チッソは排水を水俣川の河口から流して不知火海で「希釈」することにしました。ここはその排水を一時的にためる場所として使われました。しかし、チッソの思い通りにはいかず、汚染はここから不知火海全域に拡がることになりました。チッソが32 年間にわたって排水を流し続けた、水俣病の原点と言われる百間排水口に話を戻しますが、この排水口の脇に立っている案内板には、排出された水銀の量が70~1 50トン以上であったと書か水俣芦北公害研究サークル編『水俣病・授業実践のために』(学習材・資料編、2007)よりUniversity of NIIGATA PREFECTURE 26