平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 25/80

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第2回公開講座 新潟で水俣学を継承する次に水俣病と新潟水俣病の歴史を確認していきたいと思います。1956年に熊本で水俣病が公式発見され、1959年に熊本大学研究班の「水俣病は魚介類摂取で発生する神経系疾患であ....

第2回公開講座 新潟で水俣学を継承する次に水俣病と新潟水俣病の歴史を確認していきたいと思います。1956年に熊本で水俣病が公式発見され、1959年に熊本大学研究班の「水俣病は魚介類摂取で発生する神経系疾患であり、汚染毒物は水銀に注目」という公式発表がありました。そして、1964年に新潟市の住民が原因不明の神経系疾患で入院。1965年に新潟水俣病発生の公式確認。1968年には政府が水俣病についての統一見解を発表しました。この統一見解ですが、新潟水俣病は、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物を含む排水が大きく関与して中毒発生の基盤となっているということと、熊本水俣病は、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド・酢酸製造工程中で副生されたメチル水銀化合物が原因であるということが政府によって公式に発表されたものです。1971年頃に、今回、河田君が発表してくれる、御所浦という離島でも水俣病に似た症状の病気があるということが分かってきたそうです。そして、1972年に阿賀野川の中上流域で初めての認定患者が現れました。そして、1978年に阿賀野川の水銀汚染の安全宣言。4 月17日には阿賀野川の大型魚の食用規制を全面的に解除。このように時代が流れてきています。そこで、「新潟水俣病とは」ということで、熊本で水俣病が公式発見されてから9 年、新潟でも熊本と似た症状の患者が発見されました。初期段階では、患者の居住地はいずれも阿賀野川下流の沿岸に限定されていたそうです。この写真は、原因企業となった昭和電工鹿瀬工場で、撮影したのは公開講座第1 回目のバスツアーのときです。さて、「新潟水俣病の横顔」ということですが、新潟水俣病は、水俣病公式発表の10年後に発生しました。水俣病同様、差別問題によって多くの地域コミュニティの絆が奪われました。そこで、第1 の差別、第2 の差別という2 つの側面があることについて少し説明していこうと思います。第1 の差別というのは、正しい情報がないことによって、奇病にかかったから発病した人や家には近寄らないほうがよいという偏見を生み出して、地域コミュニティが崩壊してしまうという問題です。この表ですが(パワーポイントで示す)、これは週刊誌などが特集した記事の一覧で、謎の病気が阿賀野川流域で発生しているということで、過激な報道や書き方をしているというものを、飯島伸子・舩橋晴俊編『新潟水俣病問題─加害と被害の社会学』(東信堂、1999)にある関礼子氏の論文から一部抜粋させていただいております。例えば、「死をはこぶ阿賀野川“新潟の水俣病”のナゾと恐怖」や「水俣病の犯人を追って」、また、かなり過激な「犯された阿賀野川」なども目立ちます。それに対して、第2 の差別というものがあります。第1 の差別は「奇病になる」という点で差別されるものだったのですが、第2 の差別は地域から家族が差別されることを恐れて申請を行わなかった患者があとになって認定されて、「症状が軽いのに認定されて補償を受けている」と言われる差別です。これによって、患者は再び潜在化してしまいます。症状のひどい劇症型と症状はあるけれども、分かりにくい患者がいるということの理解が進まなかったことによって、この第2 の差別が、生まれてしまったようです。「なまけもの、欲張り、金目当て、偽患者、水俣病なのになんであんなに元気なのか?」など、ひどい悪口を言われていた。「大きな農家なのにまだ金が欲しいのか。金は死んでは持っていかれない」などというように、かなりひどいことを言われていることが分かります。こちらも先ほどの文献から引用させていただいたものなのですが、周囲の理解が進まないために、第2 の差別というものが起こってしまっています。ここで、熊本訪問に話題を戻したいと思います。「私は新潟病と言いたい」というタイトルなのですが、新潟は水俣病の地名をもらって新潟水俣病という病名になっております。もしこれがなければ新潟病や昭和電工鹿瀬工場阿賀病という名前になっていたかもしれませ23 University of NIIGATA PREFECTURE