平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 20/80

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平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」掘して持ち出すだけ、ということであれば、そこでは掘り尽くした後には何も残りません。佐渡金山、島根県の大田銀山などはそれでしょう。多くの人がそこで....

平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」掘して持ち出すだけ、ということであれば、そこでは掘り尽くした後には何も残りません。佐渡金山、島根県の大田銀山などはそれでしょう。多くの人がそこで働いたのであっても、慰安や娯楽の場だけで、そこに産物を利用する他の産業が立地しなければ文化は育まれません。厳しい労働で払われた賃金は「稼ぎ仕事」なのであって、さらに何かに再投資される、というわけではないのです。わかりやすいのは学校にどれだけの投資がなされているかでしょう。昭和電工の鹿瀬工場は水力発電という「再生可能エネルギー」と石灰という掘り尽くしてしまう資源を利用し、磐越西線で得られる労働力を利用し、肥料を生産、それを磐越西線で移出することから始まりました。工場が一旦できると、石灰がなくなっても次の製品を作らなければなりません。そこでインフラを適宜更新しながら新しい製品を作っていくことになりました。歴史を辿っていくと、後の新潟水俣病を起こさないためのいくつものチャンスがあったにもかかわらず、活かすことができなかったのはなぜか、ということに行き着きます。草倉銅山が操業していた時代、鉱山の残滓が阿賀野川に流出するたびに魚の斃死事件を起こしています。しかしどうにも、その場限りの対応しか採られたようすがありません。原因は(何が原因物質であるかはともかくとして)はっきりしている訳ですが、十分な再発防止策が採られないのです。これは工場という立場を離れて、現地に立脚して地域の研究を行うという組織も研究者もいなかった、ということに尽きるのではないでしょうか。先に挙げた飯島伸子氏の述懐をやはり噛みしめなければならないのです。この鹿瀬工場は現在、見学用には公開していません。しかし広大な敷地の大部分は使われていないように見えます。新潟水俣病という負の歴史ばかりが強調される工場ですが、他方、昭和電工は全国一律の給与で多くの人を雇い、地域を潤したこともまた事実なのです。工場内の原因施設は残されていないにせよ、むしろ他の「四大公害病」地域のどこでも行われていない現存する工場の見学を通して正確な理解を得られるような方策を採った方がよいのではないでしょうか。なぜならば、この鹿瀬、いや、かつての日本で起こったことが、世界の各地で再び行われてしまっているからです。工場の遊休化している部分が残されているからこそ、現物資料を使っての教育・研修ということが可能のはずです。また、それこそが企業が持つ、社会に対する責任であります。そのような見方をすると、鹿瀬工場が操業していた時代、接待に用いられた麒麟山温泉をはじめ、福島県境を超えて会津若松方面に向かう磐越西線の車窓からの風景も、なかなか見ることができなくなってしまった日本の原風景として国内外に強く訴えることができる資源であると思うのです。もう、にらみ合っている時代は終わりにしようではありませんか。●奥阿賀ふるさと館前(終点)昭和電工工場を眺望した後、国道459号の峠を降りるとすぐ、鹿瀬ダム・鹿瀬発電所が右手の谷に見えてきます。反対車線には何箇所か駐車スペース様の箇所もありますが、木が茂っていて見通しはあまり効かず、ダムの眺望点というほど整備されている訳ではありません。車高の高いバスから見るのが一番かもしれません。鹿瀬ダムは阿賀野川水系で最初に建設されたダムで、1928年に竣功しています。この区間の国道459号が改修されたのはまだ新しく、この先、福島県方向へは未整備区間が続く「酷道」です(睦月、如月、弥生、…と名付けられた素掘りのトンネルは、それはそれで面白いですが)。地元の人に聞いても、車で県境を越えようというと、いや、汽車で行くとごく最近まで言っていたといいます。したがって鹿瀬ダムの建設にも、1914 年に全通していた磐越西線が阿賀町鹿瀬水力発電所University of NIIGATA PREFECTURE 18