平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 19/80

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第1回公開講座 バスツアー 阿賀野川流域を知るしいのではと思います。津川駅前から対岸を見ると、津川河港の跡が見えます。河港と言っても灯台やクレーンがあるわけではありません。今では岸から川に降りる階段が....

第1回公開講座 バスツアー 阿賀野川流域を知るしいのではと思います。津川駅前から対岸を見ると、津川河港の跡が見えます。河港と言っても灯台やクレーンがあるわけではありません。今では岸から川に降りる階段が付いているだけですから、一見わからないことでしょう。狐の嫁入り屋敷に展示されている写真や古図を見ると、麒麟山の南側の常浪川の入江全体が河港だったようです。対岸に麒麟山の北側、麒麟山温泉を見て、程なく鹿瀬駅前に至ります。●鹿瀬駅・昭和電工工場かつて、鹿瀬駅から昭和電工の工場まで、歩く人の行列がずっと続いていたといいます。往事の磐越西線では、五泉のニット産業は女性の職場、鹿瀬の昭和電工は男性の職場となっており、五泉と東蒲原とでは行き来が盛んだったそうです。今ではその面影は感じられませんが、かつては地域間の人の往来は鉄道で行われ、多数の近距離客が利用していたようです。そのころを語る昭和電工社宅のハーモニカ長屋は一部まだあるのですが、阿賀野川を挟んで駅の対岸で、バスは入らないため省略。そのまま昭和電工(現:新潟昭和)工場を上から望める場所まで移動しました。電力は今のようにどこででも簡単に手に入る訳ではなかった時代、まず、水力発電が行われて、そしてそれを利用する需要者が求められました。そして電力を使う工場は付近で何か原材料となるものを求めた、という順番です。そこで働く労働力は後から付いてくる。おそらくは山稼ぎをする集落が点在していたところに、突如ダムと工場ができて、磐越西線を使って通ってくる人たちを輸送して、ということだったのでしょう。明治20年の現鹿瀬地区(日出谷村)の人口は3,352人と記録にあります。工場は現在でも一部が操業を続けています。しかし鹿瀬駅前から工場の門まで人の列が切れなかった、という賑わいはありません。ある意味、企業城下町どこでもある栄枯盛衰が個々でも繰り返された、ということでしょうか。しかし、近世・近代から続く鉱山・工場の立地と、現代になってから置かれた立地とはいくつもの点で異なりますし、鉱山だけで比べても、それぞれに特徴があるのではないかと感じます。阿賀野川の流域では下流は石油・ガス、阿賀野市では粘土、阿賀町三川に入ってベントナイトから始まり、草倉銅山など、種々の鉱物資源が採掘されてきました。鉱山にもいくつかタイプがあります。採鹿瀬駅新潟昭和社宅跡鹿瀬駅踏切17 University of NIIGATA PREFECTURE