平成24年度新潟県立大学 公開講座

平成24年度新潟県立大学 公開講座 page 18/80

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平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」磐越西線は喜多方より東しか、電化されていません。阿賀町旧鹿瀬町では、古くから水力発電所があったにもかかわらず、昭和40年代まで電力が供給されていな....

平成24年度新潟県立大学公開講座「阿賀野川流域から世界へ」磐越西線は喜多方より東しか、電化されていません。阿賀町旧鹿瀬町では、古くから水力発電所があったにもかかわらず、昭和40年代まで電力が供給されていなかった地区もあったのです(現在でも幹線からでなく、発電所の自家用電力の余剰分が供給されているそうです)。ダム、というよりは川がせき止められることで、新潟から津川までの水運は不可能になりました。また、上流福島県側から行われていた木材の筏流しももちろん出来なくなりました。一部魚道が作られるにしても、サケやアユといった海から遡上する魚はもちろん、阿賀野川を行き来していた魚にも大きな影響を与えたことは当然です。揚川ダムは昭和30年代の建設ですが、源流只見川にいたる電源開発と地域の関係を考えるために、国道49号から逸れて上から巨大な堤体を眺めていただきました。この付近は1967年の羽越大水害をはじめ、何度も洪水に見舞われた箇所です。磐越自動車道の橋脚に残る増水の跡を見、三川中学校が歌い継いでいる合唱組曲「阿賀野川」を車中で聞いていただきました。●津川駅・津川河港戊辰戦争の北越戦争(1868・慶応4 年5 ?8 月)、阿賀野川に並行する若松街道は戦場となります。阿賀野川の舟を押さえられてしまった官軍の山縣有朋は新発田から陸路、阿賀町津川に至りますがここで麒麟橋は当時、もちろん存在してません。会津藩が舟を引き上げたため、どうしても阿賀野川を渡ることができなかったのです。そのときの遺跡があるわけではありませんが、ところどころに旧街道の石畳が残るところもある津川付近は歴史を知ることで面白さが何倍にもなる町です。今回は麒麟橋は渡らず、津川駅前から右岸=北岸を磐越西線と阿賀野川の間を走る県道で鹿瀬に向かうこととしました。磐越西線は鉄道史としても面白い路線です。新津から五泉・馬下までは1910年に、津川までは1913 年に信越線の支線として開業しています。そして翌1914 年に福島県の野沢まで開通し、郡山・若松からの岩越線と直通。上越線の開通までは信越本線と並ぶ上野=新潟連絡ルートでした。信越線や上越線と比べて急勾配や長大トンネルもなく、2007年まで貨物輸送も行われていました。阿賀野川にかかる橋梁は産業遺構としても興味深いものがあります。もっとも現在では津川以西が1 日11 往復、福島方向へは8 往復とかなり淋しい状況ではあります。津川駅には蒸気機関車用の給水施設が現存しています。休日に運行されるSLばんえつ物語号はここで7 トンの真水を補給するため、16分の停車があります。転車台はありませんが、蒸気機関車の給水施設の方が珍津川駅・7トン給水ばんえつ物語号津川河港University of NIIGATA PREFECTURE 16